居留地周遊モデルコース

「長崎古写真ハンティング」のアプリを読み込んだスマホを用いて、長崎の旧外国人居留地の大浦と南山手の建物と風景を探索します。大浦のメインストリートを出発し、弁天橋からの風景を確かめて、大浦天主堂を通り過ぎ、グラバー園を訪問し、グラバー住宅やオルト住宅、さらにはグラバーが眺めていた景色の撮影ポイントを探ります。

  • 1大浦メインスツリート

    1874(明治7)年ごろの撮影。「メーンストリート」呼ばれた大浦居留地の街路。海岸通り「バンド(船着場)」から一筋奥に入った、現在のオランダ通りの一角。弁天橋につながるこの辺りを、日本人は常盤町2丁目と呼んだ。 電信柱が見えるが、1871年、デンマークのグレート・ノーザン・テレグラフ社により、上海とウラジオストクから長崎に日本で初めて海底電線が敷設され、居留地は世界各地と電線でつながった。

  • 2弁天橋

    ベアトが1865年ごろ撮影した弁天橋から望む大浦川上流。右手前の2階建は蘭人J.ブロイニール所有の洋館。38番はスミス船具商で、37番の洋館にはExpressの看板が出ている。36番はLondon HotelおよびBoard of Trade Hotel、突き当たり34番の正面の看板はNew Amsterdam Hotel。35番はニュー・クラブ・ハウス(ボーリング・玉突き場)。左手前の大浦14はオルトの、15番はグラバーの借地だった。

  • 3大浦天主堂

    明治中期の大浦天主堂。明治7~12年の改築で5廊式に拡充された。このとき折衷的な意匠はゴシックに統一。慶応3年(1867)4月、フランスから送られてきた「日本の聖母」像が天主堂前庭に見える。右手はド・ロ神父設計の明治8年に竣工した羅典神学校(国指定重要文化財)。手前の大司教館(大正3年完成)はまだ見えない。

  • 4グラバー住宅

    ベアト撮影。文久3(1863)年に建てられた日本最古の木造洋風建築で世界遺産。完成後間もない邸宅の庭で椅子に座るグラバー(左)を中心にグラバー商会の関係者を撮影されている。奥部のリンガー住宅が建つ場所では、日本の職人が邸宅を建築するために石垣の積み上げている。

  • 5グラバー庭園Ⅰ

    「グラバー邸の庭園」と説明されている。完成して間もないグラバーの平屋住宅の庭園で、石に座ってコーヒーカップを持つグラバーを中心に、ベアトが商会の関係者が撮影されている。庭には古伊万里の焼き物や蒔絵の机が持ち出され、後方には石灯籠も見える。

  • 6グラバー庭園Ⅱ

    「グラバー邸の砲台の景色」と説明されている。グラバー邸には大砲が設置されていたことが分かる。グラバーは左の石の横に座っている。人物の配置と構図はベアトが綿密に指示したようで、タイミングやポーズが決まっている。武器がものをいう幕末の雰囲気がひしひしと伝わる。

  • 7グラバー住宅遠景

    1865年頃、ベアトがリンガー住宅の前の庭園の端から撮影した、グラバー住宅の遠景。建築直後の写真であり、グラバー住宅の最初期の姿を確認できる。このとき温室はこの写真の右側にあった。屋根上に茂る大松から、この地は一本松と呼ばれた。

  • 8オルト住宅

    1865年頃、ベアトがグラバー園の南端、スチール記念学校の背後の丘から撮影したウィリアム・オルトの住宅。背後にはまだ空き地のリンガー住宅の場所越しに、グラバー住宅が見えている。現在、手前の広場にスチール記念学校(桃山学院)の旧校舎が移築されている。

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