ラシーヌ悲劇について −その6−

なぜ「トルコ悲劇」か?

戸口民也


 『ブリタニキュス』『ベレニス』と《ローマ物》を二作続けて発表した後、ラシーヌは悲劇の舞台を今度はトルコに移す。題材は、ラシーヌ自身によれば、「今から三十年足らず前に後宮で起きた事件」(1)すなわち時のトルコ皇帝アミュラが弟のバジャゼを暗殺した事件である(2)

 ラシーヌがトルコに目を向けた理由は何であったのか。ひとつには、ちょうどその頃、宮廷やパリでトルコに対する関心が高まっていた、という事情があげられる(3)。ルネ・ジャザンスキーによれば、この時期、対トルコ政策はルイ14世とコルベールにとって重要な政治課題のひとつとなっていた(4)。しかも、トルコ問題が為政者のみの関心事にとどまらなかったことは、当時のガゼット(新間の前身と言うべき刊行物)の記事にもトルコについての言及が数多く見られるところからも明らかである(5)

 それに、1669年にトルコ皇帝の使節がフランスを訪れ、ルイ14世に拝謁したことも、一般のトルコへの好奇心をかきたてる出来事であった(6)。さらに、このことをきっかけとして書かれたモリエールのコメディ・バレー『町人貴族』(7)は、トルコの皇子(ただし偽者ではあるが)を登場させたり、トルコ風の儀式を華やかに取り入れるなどして、大成功を収めている。無論その成功にはリュリの音楽やバレーといった要素が大きくあずかっていたに違いないが、劇に盛り込まれた《トルコ趣味》が観客の興味をそそったのも確かで、またこれが一層トルコ熱をあおる効果をももたらした。時流を見るに敏であったラシーヌが、モリエールの成功に刺激され、今度は自分が悲劇の領域で《トルコ物》を手掛けてみようと思い立ったとしても不思議はない。ラシーヌは、既に『アレクサンドル大王』で巧みに時流に乗り、新進劇作家としての地位を確保したという経歴をもっている(8)。「人に気に入られることを第一に心懸けていた詩人が、こうした機会を見過ごしたりはしない」(9)という指摘がなされるだけの根拠は十分あると言えるだろう(10)。『バジャゼ』が後宮を舞台としている点も、観客の興味を引く大きな要素となったはずで、ここにもラシーヌの配慮が働いていたと考えてよい。

 とはいえ、古典悲劇の大道とも言うべき古代ギリシャ・ローマの世界を離れ、時代的にも極めて近い − ほとんど同時代といってよい − トルコに題材を求めるのは、大胆かつ野心的な試みであったことも否定できない。モリエールの成功は喜劇の領域でなされたことであり − それも正確には、コメディ・バレーという音楽やバレーを取り入れたスペクタクル的要素の強いジャンルで、いわゆる「本格喜劇」とは異なるものである − 、悲劇の領域でも「トルコ物」が成功するという保証には必ずしもならなかった。確かにラシーヌ以前にもトルコを舞台とする悲劇が書かれ上演されたことはあったが、いずれも1630年代から40年代にかけての時期にまでさかのぼり、それらの作品とラシーヌの『バジャゼ』(初演は1672年1月)との間には20年以上の空白期間がある(11)。しかもこの間に、時代の好尚も悲劇のありように対する考え方も大きく変わっている。過去に《トルコ悲劇》の実例があったにせよ − それも今なお熱烈な支持者をもつコルネーユのような大作家の手になる傑作がその中に含まれていたというのなら事情は多少異なるかもしれぬが − 、いずれも1670年代の観客にはほとんど忘れられてしまっている作家たち(12)の凡庸な作品とあっては、過去の伝統とか《トルコ悲劇》の流れとかを議論してもはじまらないだろう(13)。ラシーヌが『バジャゼ』執筆にあたって過去の《トルコ悲劇》を読んで何らかの参考にした可能性はあるが(14)、そうだとしても結局は何らかのと言う程度にとどまりそうで、しかもこれはラシーヌが実際に相手にした観客とは何ら関係のないことであった。従って、ラシーヌ以前の《トルコ悲劇》は、あくまで過去にそうした作品があったというにすぎない。1670年代の観客の関心を引いたのは、現在流行中のトルコ趣味に応じた悲劇が、当代の第一人者たる悲劇詩人ラシーヌの手によって新たに書かれた、というところにまさにあったわけで、「それゆえラシーヌの試みは新奇なものに見えたに違いない」(15)のである。

 観客にとってラシーヌの新作悲劇が「新奇なもの」に見えたということは、作者にとってもこれが大胆かつ野心的な企てであったといえるわけである。だが、ラシーヌがこれまでの作品で大胆さも野心も示さなかったわけでは決してない。例えば『アンドロマック』は、ポール・ベニシューが指摘するように(16)、古典古代以来取り上げられなかった主題を扱っているという意味で、文字通りラシーヌ独自の − そしてラシーヌが新たに開拓した − 作品である。また、『アンドロマック』の成功で新進悲劇作家の地位を確立したラシーヌが、次には喜劇 − それも当時としては他に類がない(17)アリストパネスを下敷にした喜劇 − を世に問うている。コルネーユの例にもあるように、悲劇と喜劇の両方にまたがって作品を発表した作家は珍しくないが、レーモン・ピカールも述べているように(18)、『訴訟狂』とラシーヌの悲劇作品とのへだたりの大きさを考えると、これが同一作家の手になる作品とは信じ難いほどである。当時の観客たちも、これが『アンドロマック』の作者の作品かと一瞬とまどったことは確かなようである(19)。ラシーヌが喜劇を書いたのはこれ一作きりだが、この陽気に破目をはずした狂騒曲を見れば、いざ喜劇を書くとなれば、彼がどれほど徹底的かつ大胆に喜劇作者に変貌できるかを知ることができるというものである(20)

 『ブリタニキュス』と『ベレニス』についてはどうだろうか。ラシーヌはそこでコルネーユに真向から戦いを挑んでいる。しかも相手が得意とする《ローマ物》を敢えて選んで挑戦しているのである。結果はラシーヌの勝利に終るが、こうして見てきたところからも、彼が次々と新たな領域を手掛け、大胆な試みを繰り返してきたことがわかるだろう。

 それゆえ、ラシーヌが今度は《トルコ物》という新たな冒険を企てたからといって、驚く必要はもはやないだろう。既に述べたように、時代の興味を考えれば、《トルコ悲劇》は、その「新奇さ」とも相俟って、成功する可能性を十分見込める、とラシーヌは計算したに違いない。そして実際に『バジャゼ』は、作者の目論見通り成功することになるのだが、ラシーヌが《トルコ物》を選んだ動機は、単に時流に乗るというだけではないと思われる。以下、私が推測する「動機」について述べてみたい。

 第一の動機として私が考えるのは、モリエールに対する反駁である。ただこの点については、少し前置きが必要となるため、しばらく回り道をしなければならない。

 ラシーヌが劇界にデビューした当時、パリには三つの劇団が存在し、激しい競争を展開していた。最も古くからあり、また最も重要な劇団と見なされていたのは、オテル・ド・ブルゴーニュ座を本拠とする「王立劇団」で、特に悲劇にすぐれていた。次に有力視されていたのがパレ・ロワイヤル座を拠点とするモリエールの一座で、こちらは喜劇を得意としていた。そしてもうひとつはマレー座の劇団であるが、先の二つの劇団に較べると俳優陣に見劣りし、もっぱら「機械仕掛の劇」つまりスペクタクル物に活路を見出していた。ラシーヌの劇作家としての経歴を語る際にはマレー座劇団はあまり重要ではないので、ここでは紹介するだけにとどめることにし、以後は王立劇団及びモリエール劇団とラシーヌの関係を中心に問題を絞ることにする。

 王立劇団とモリエール劇団は、ラシーヌのデビュー以前から覇を競っていた。ラシーヌの第一作『ラ・テバイッド』はモリエール劇団で上演されるが、この作品は、王立劇団で上演を予定されていたボワイエの同名の劇に対抗するため、モリエールが新人作家に注文した可能性がある(21)。デビューと同時に早くもラシーヌは「競作事件」に巻き込まれたわけである。

 第二作『アレクサンドル大王』では、事情は更に複雑かつ重大になってくる。ラシーヌはモリエール劇団の演技、特に朗唱法には反感を持ち、むしろ王立劇団での上演を望んでいた。ラシーヌは事前に王立劇団と交渉までしたようだが、結局劇団側に拒否されたようで、『アレクサンドル大王』は前作同様モリエール劇団で初演された。客の入りは順調で、明らかに成功だった。一方王立劇団もこれに対抗し、再びボワイエの約二十年前に書かれた旧作『ポリュスあるいはアレクサンドルの寛容』を上演したが、結果は思わしくなかった。そこにラシーヌが改めて王立劇団に自作上演をもちかけ、王立劇団でもラシーヌの悲劇が上演されることになった。新作の初演期間中に競争相手の劇団に作品を渡したというラシーヌの行為は当時の慣行に反するものであった。しかもラシーヌは、モリエールのおかげでデビューできた上に(『ラ・テバイッド』の上演は、新人の作品としてはまずまずの成功だった)、第二作の上演でも成功が約束されるようなすべり出しであったにもかかわらず、こうした挙にでたのである。モリエールとその劇団の受けた衝撃と怒りは大きく、以後ラシーヌは彼らを敵にまわすことになる(22)

 この事件を契機に、ラシーヌは以後『フェードル』に至るまで、一貫して作品を王立劇団に委ねることになるが、劇団同士の競争に加えて、モリエールとの個人的な遺恨にもとづく対立(そもそもの責任はラシーヌ側にあるわけだが)も深刻化してゆく。しかもラシーヌは『アレクサンドル大王』から『アンドロマック』と目ざましい成功を収めるにつれて、特にコルネーユ派からの批判・攻撃にもさらされるようになる。こうして彼は、新作を発表するごとに、激しい闘いを余儀なくされることになる。コルネーユ派、そしてコルネーユそのひととの闘いは『ブリタニキュス』と特に『ベレニス』における「競作事件」で頂点に達するが、ここではまずモリエールとの対立に焦点を絞ってみよう。

 『アンドロマック』の大成功を目のあたりにしたモリエールは、シュブリニーの『馬鹿げた争い、あるいはアンドロマック批判』を上演し、ラシーヌの悲劇を茶化す(23)。それに対して今度はラシーヌが先にあげた『訴訟狂』でもってモリエールに反撃を加える、といった具合である(24)。更に、『ベレニス』における《競作事件》の際にも、コルネーユの『ティットとベレニス』を上演してラシーヌと対抗したのはモリエール劇団であった。しかもその時、モリエールがコルネーユの悲劇と『町人貴族』とを交互に上演したことも思い出す必要があるだろう(25)。こうした因縁を考えれば、ラシーヌが『訴訟狂』に続いて再び − ただし今度は喜劇ではなく悲劇でもって − モリエールに立ち向かおうと思ったとしても、あながち不自然とは言えないだろう。

 これはあくまで私の推測である。だが、推測を続けるとすれば、『町人貴族』の中で例えば次のような点がラシーヌの対抗意識をかき立てたように私には思えるのである。それは、この作品に登場するトルコ入がすべて偽者で、そこに盛り込まれたトルコ風の儀式も − それが『町人貴族』の最大の呼物でもあったのだが − まがいものであった、という点である。また、この作品の《トルコ趣味》は、いささか唐突に、つまりは取ってつけたような形で劇に取り入れられている − というよりはむしろ奇妙奇天烈な《トルコ風》を劇に仕組むのをそもそも目的としてこのコメディ・バレーは作られている、と言ってもよい。いずれにせよ、モリエールは偽のトルコ人をパリに出現させ、まがい物のトルコ風儀式を演じさせて大成功を収めたわけである。それなら自分は、トルコを舞台に、本物のトルコ人を描いてみせよう、とラシーヌが秘かに思いはしなかっただろうか(26)

 それにラシーヌは『ブリタニキュス』と『ベレニス』で対決してきた当面の敵コルネーユを破ったところである。しかもこの勝利は、既に述べたように、相手の得意とする《ローマ物》を自ら進んで手掛けることによって得たものだった。とすれば、彼が次の攻撃目標として再びモリエールに矛先を転じ、『町人貴族』の向うを張って《トルコ悲劇》を新作に選ぶことに決めた、という推測も成り立ち得ると思う(27)

 以上が私の考える第一の動機である。次に第二の動機として取り上げたいのは、これまで述べてきたこととも関連するが、一作ごとに新たな試みを企てようとするラシーヌの創作上の性癖とも言えるものである。その性癖とは次のように要約することができる。

 ラシーヌはひとつの作品を発表した後、ほとんど必ずと言ってよいほど前作とは全く対照的な作品を手掛け、次には新たな領域を求めて同じように対照的な作品を二作書く、ということを規則的とも言える正確さで繰り返している(28)。このことは、喜劇を含む彼の全劇作品をたどってみても明らかである。ひとつひとつの作品について、題材と舞台、主題、筋立、結末、あるいは各作品執筆の際の状況などを見ながらまとめると、以下のようになる。

 『ラ・テバイッド』 − ギリシャ悲劇の世界から。主題はオイディプスの息子たちの宿命的な憎悪。オイディプス一族への呪いと陰惨な結末。主人公全員の死。各幕ごとにどんでん返しを盛り込んだ複雑な筋立。ロトルーの作品をふまえたり、コルネーユの模倣が目立つなど、旧世代風の作品。

 『アレクサンドル大王』 − ギリシャ・ヘレニズムの世界から。ただし同時代の宮廷の雰囲気を濃厚に反映したもの(アレクサンドル=ルイ14世)。舞台はインド。アレクサンドル大王のインド征服の物語。主題は征服者の寛容。優雅な恋とヒロイズムの高揚。結末は和解。単純な筋への試み。キノーやトマ・コルネーユ流のロマネスクな劇。新世代、当世風の作品。

 『アンドロマック』 − ギリシャ悲劇の世界から。トロイア戦争の悪夢と恋愛情念に憑かれた人間たち。筋立はかなり複雑。流血の結末。新たな「アンドロマック伝説」の創造 − この主題による悲劇は、ルネサンス期以降ではおそらくラシーヌがはじめて手掛けたものである(29)

 『訴訟狂』 − ラシーヌ唯一の喜劇。舞台は同時代のフランス。ただしギリシャ喜劇(アリストパネスの『蜂』)を下敷にする − この時代にアリストパネスに想を得た作品が書かれた例は他にはない(30)。訴訟への情熱に憑かれた人間たち。陽気で急テンポな馬鹿騒ぎ。最後はめでたしめでたしで一件落着。モリエールに対する反撃。

 『ブリタニキュス』 − 古代ローマの世界。タキトゥス。ローマ史の最も陰惨な部分。権力闘争のドラマ。主題は怪物・暴君の誕生。流血の結末は更に不吉な未来を予感させる。複雑な筋立。対コルネーユー − ただし勝負はつかず。

 『ベレニス』 − 古代ローマの世界。スエトニウス。ローマ史の最も輝ける部分。主題は善帝の誕生と恋人たちの永遠の別離。流血も死もない悲劇。「荘重なる悲哀」(31)を歌い上げる結末。単純な筋を極限まで追求しようとする試み(32)。対コルネーユ − そしてラシーヌの勝利。

 『バジャゼ』 − 舞台はほぼ同時代のトルコ。過激な情念と苛酷な権力闘争の支配する野蛮な世界。神なき人間の悲惨。複雑な筋。結末は「大殺戮」(33)。対モリエール。

 『ミトリダート』 − 舞台は古代小アジア。主題は圧制者ローマに対する英雄の闘いと死。しかし、英雄の志はその死後も受け継がれるであろう。対コルネーユ − 決定的勝利(34)

 『イフィジェニー』 − ギリシャ悲劇の世界から。すりかえられた宿命。呪いは副次的人物に負わされる。かりそめの和解 − しかし決定的な破局は将来避けられぬだろう。対オペラ、ヘレニストとしての自負(35)。反ラシーヌ派との闘い(36)

 『フェードル』 − ギリシャ悲劇の世界から。成就された宿命。呪いは主人公が一身に負う。決定的な破局 − そして生き残った者たちの苦い和解。ヘレニストとしての自負。反対派との闘い(37)

 『エステル』 − 旧約聖書。神は義しき人々を救った。神は和らぎ許したもう。神を愛せよ。

 『アタリー』 − 旧約聖書。神は邪悪な人々を滅した。神は怒り罰したもう。神を恐れよ。

 これを見てもわかるように、ラシーヌは明らかに対をなす作品を二作ずつ書きながら、次々に新たな領域の開拓、新たな状況への対応を試みていることが確認できるだろう。『ラ・テバイッド』と『アレクサンドル大王』は新旧の先行作家たちにならった新人の作品であるとすれば、『アンドロマック』と『訴訟狂』はこれまで誰も手がけていなかった題材を意欲的に取り上げ、独自性を示した作品である。そして、この四作は全体でいわば「初期ギリシャ物四部作」をなしていると見ることもできるだろう。『ブリタニキュス』と『ベレニス』は「ローマ物」、また『バジャゼ』と『ミトリダート』は「新旧オリエント物」とそれぞれ呼ぶことができるが、あわせて「歴史物四部作」をなしてもいる。そして『イフィジェニー』と『フェードル』は「後期ギリシャ物二部作」、『エステル』と『アタリー』は「旧約物二部作」とそれぞれ分類できる。

 しかも、既に見てきたように、これら作品群を構成する対をなした二作品は、それぞれ劇の調子の明と暗、流血の破局と和解による結末、複雑な筋と単純な筋、古代と現代などといった鮮かな対照を示している。つまり、このようにしてラシーヌは、一作ごとに一方の極からもう一方の種へと激しい − しかも同時に周期的とも言える − 往復運動を繰り返しながら、ひとつの作品から次の作品ヘ、ひとつの対からそれと対称をなす次の対ヘ、さらには一運の作品群から別の作品群へと、規則的な正確さで移行しているのである。アラン・ニデールが自著の副題に選んだ「多様性と統一性」(38)という言葉は、ラシーヌ悲劇の世界を考える上で念頭に置かねばならぬだけでなく、ラシーヌの創作上の性癖を論ずる際にも取り上げたい言葉である。ラシーヌ劇の世界は、一般に普通言われている以上に多岐にわたっている。それに彼は、これまで述べてきたところからも明らかなように、新たな領域に踏み込むことを恐れなかったし、いくつもの大胆な試みを企ててきた。時代の好みへの柔軟な対応、あるいは「敵」に対する過敏な反応も、彼が新しい試みをなす契機としてその都度はたらいていたに違いない。しかし、忘れてはならないのは、それにもかかわらず、彼の劇作品を全体として見直した時、そこに一貫した創作上のリズム、ないしは規則性が明らかに見出されるということである。確かに、こうしたことはあくまで結果的にそうなったにすぎない、という見方も可能かもしれない。だが、それにしては見事に整いすぎてはいないだろうか。それにラシーヌの生涯を考えれば、彼がひとつところにじっととどまったまま、そこで与えられた状況に満足するような人間では全くなかったのは明らかである。レーモン・ピカールが述べているように、「地方の中流ブルジョワジーの家庭に生まれ、まもなく財産もない孤児となった彼は、知ってのとおり、途中、フランス語で書かれた最も美しい悲劇を作った後、宮廷の貴顕、王の身近に侍る人物として死んだ。細かく仕切られた身分社会と信じられてきたような社会においては、これは驚くべき軌道ではないだろうか。これは単に出世というだけでなく、見事な出世である。」(39) 「40年近いあいだ、野心は − それはいかなる道をとるにせよ出世の原動力となるものだが、彼の場合には多様な、しかし常に旺盛な野心が − ラシーヌを新たな征服へと駆り立てたのである。」(40) ポール・ロワイヤルの旧師たちや叔母の度重なる説得を振り切って劇作家の道を選んだ彼は、自分を世に出してくれたモリエールをあっさりと柚にして、より格の高い王立劇団に鞍替する。また、そうして築き上げた劇界第一人者の地位も、劇作家の道も、修史官という更に名誉ある地位につくためには、惜しげもなく捨て去るのである。今ここで問題を彼の劇作家としての活動期間にのみ限定したとしても、彼がこの間に「多様な、しかし常に旺盛な野心」に駆り立てられ、次々と「新たな征服」を目指して創作活動を行ったことは、既に見てきたところからも明らかであろう。彼が悲劇の舞台を次々に変えていったのも、つまりは彼の「野心」からくる必然であった、と私は考えるのである。

 話を元に戻すが、『バジャゼ』執筆 − すなわち《トルコ悲劇》という選択 − の第二の動機は、ラシーヌの「新たな征服」への野心と、そこから生じた彼の創作上の傾向 − 作品ごとに彼が示す周期的な往復運動と、新たな領域への規則的な移行のパターン − に帰すことができる。「ローマ物」は既に二作続けて書いた。しかもコルネーユにも勝った。だから今度は別の世界から題材を求め、次の成功を得よう、というわけである。それに、時流は《トルコ物≫を歓迎している。モリエールのこともある。ならば《トルコ悲劇》も結構ではないか!

 いずれにせよ、ラシーヌが新たな試みに着手する条件は、以上に述べてきたように、いくつも揃っていたと言えるだろう。だがそれにしても、何故《トルコ物》が最終的に選ばれることになったのか。これまで私自身の推測もまじえながら見てきた動機や理由が彼にトルコへの関心を抱かせる重要なきっかけとなったことは間違いないと思うが、それ以上に、作者の創作意欲を刺激する要素がそこになかったとすれば、ラシーヌは中途で方針を変え、別の主題を他の世界に求めていただろう。またそうすることを妨げる制約はなかったはずである。とすれば、トルコのどういったところがラシーヌの興味をそそったのか。私の考えるところはこうである。

 ラシーヌはトルコ皇帝の一族が繰り返してきた骨肉の争いに注目した。バジャゼの死にまつわるエピソードは、作者自身が「第一の序文」に書いているように、人から聞いたものであろう。そうした伝聞に加えて、トルコに関する歴史や見聞録、さらには物語などを読むうちに(41)、ラシーヌはそこに、かつて自分が『ラ・テバイッド』や『アンドロマック』『ブリタニキュス』で取り上げたのと共通ずるテーマを見出したのである(42)

 歴代トルコ皇帝は、自分の権力をおびやかす存在、特に兄弟を最も危険視して、容赦なく抹殺した。権力闘争や陰謀は、そこでは慣習化していたのである。これはまさに『ブリタニキュス』の世界であり、また「敵同士の兄弟」という意味では『ラ・テバイッド』とも共通している。『バジャゼ』の登場人物の一人である宰相アコマが腹心の部下に語る次の台詞は、作者がトルコの歴史で何に注目したかを知る手掛りとなるだろう。

お前も知っていよう、歴代皇帝が例としてきた苛酷なやり方は。
皇帝が自分の兄弟に
同じ血を分けたという危険な名誉をわがものとさせておくことは稀だ。
同じ血筋となれば、皇帝の座に近すぎるからな。(I.1)
 そこはまた、激烈な情念が支配する世界でもある。
 (トルコ人の歴史を読みさえすれば)いたるところで彼らが生命を軽視していたことがわかるだろう。いくつもの箇所で、彼らが情念をいかに極端なところまで押し進めるかがわかるだろう・・・(43)
 更にラシーヌは、情念が最も抑圧された場として「後宮」に着目する。
 実際に、かくも多くの恋敵同士が一緒に閉じこめられ、その女たちがすべて、永遠に続く無為の中で、気に入られ愛される術を学ぶ以外にはつとめることもないような場にもまして、嫉妬と愛とがよく知られている宮廷が一体どこにあるだろうか。(44)
 『アンドロマック』におけるエピール、『ブリタニキュス』におけるネロンの宮廷も、『バジャゼ』の主人公たちが文字通り閉じこめられているこのトルコの後宮に較べれば、まだ開放的なところがあると言えるだろう。これは、まさに閉鎖的で息詰まる牢獄であり、生きて脱け出すことのできぬ地獄である。

 歴代のトルコ皇帝一族の間で繰り返されてきた権力をめぐる陰惨で苛酷な争い、過度の情念、そして抑圧的な場としての《後宮》。これこそまさに神なき人間の悲惨が如実に示されている世界に他ならぬのではないか − おそらくラシーヌはそう思ったであろう。

 神なき人間の悲惨と言ったが、これは勿論パスカルの『パンセ』を連想した上で述べたことである。ただし、ラシーヌが『バジャゼ』執筆の時点で『パンセ』を読んでいたという証拠はない(45)。だが、『バジャゼ』について考えるとき、私は『パンセ』の次の断章を引用してみたいという誘惑にかられるのである。

本性は堕落している。
イエス・キリストなしには、人間は悪徳と悲惨のうちに沈むほかはない。
イエス・キリストと共にあるならば、人間は悪徳や悲惨から免がれる。
彼のうちには、われわれのあらゆる徳、あらゆる祝福がある。
彼のそとには、悪徳、悲惨、誤謬、暗黒、死、絶望が、あるばかりである。(46)
 繰り返すが、ラシーヌが『バジャゼ』執筆の時期に『パンセ』を読んでいたという証拠はない。また、仮に読むなり人から聞くなりする機会があったとしても、私が推測するような意味でこの断章に注目したという保証はない。しかし、トルコに関する話を人から聞いて劇の着想を得たときに、あるいはその後トルコについての歴史、見聞録などを読みながら『バジャゼ』の構想を練る過程で、ラシーヌが今引用した断章に語られていることと同じ思いにとらわれたかもしれぬという可能性に、私はこだわりたい気がする。

 前回までの論考(47)でも述べてきたように、ラシーヌ悲劇の世界から神々の存在が次第に稀薄となり、ついに姿を消してしまう。しかも、人間の世界に依然として蔓延する悪は、「もはや神々とは関わりない、純粋に入間の問題として提示される」(48)か、あるいはローマという「新たな《神》が形成され、かつてのギリシャ悲劇における神々と同様に、人間の運命を支配するに至る」(49)のである。そして『バジャゼ』は、このように推移してきたラシーヌ悲劇が行き着いたひとつの極である、と私は思う。ラシーヌ自身が言うように、トルコ人は「こちら〔=フランス〕では野蛮入とみなされている人々」(50)であり、正しい神の教えを信じぬばかりか、これに敵対する傲慢不遜の徒であるわけだ。その彼らの歴史はどうか。まさに神なき人間の悲惨を如実に示すものに他ならぬではないか。

 ラシーヌ自身がそうはっきり口にしているわけでは確かにない。しかし、作品がそれを物語っている。神の不在と人間の悲惨とをその極限状態において描く試みが、こうしてなされることになる。ラシーヌは《トルコ悲劇》を選んだのである。


 (1) Première Préface de Bajazet (Pléiade, I. p.529.)。なお、劇の題材となった事件は、この序文が書かれた時点からみると、厳密には今から三十数年前に起きたとするのが正しいようである。註(2)にあげた研究を参照のこと。

 (2) この事件についてラシーヌは「第二の序文」で更に具体的に説明しているが、実際には作者の創作上の自由をかなり行使している。『バジャゼ』に限らず、ラシーヌは他の作品でも大小さまぎまな改変を行っているが、その最も顕著な例としては『アンドロマック』(アステュアナクスの生存とアンドロマックのエクトールへの貞節)、『イフィジェニー』(もう一人のイフィジェニーの設定)、『フェードル』(イポリットの恋)などがあげられる。無論題材の自由な改変は、ラシーヌのみがしたことではないが、例えば序文で歴史的事実への忠実を繰り返し主張する彼が、実際には大胆な改変を辞さなかったという証拠のひとつになるだろう。
なおラシーヌの『バジャゼ』とトルコ史との比較および典拠に関しては、主として次の研究を参照。

 (3) 前註にあげた研究を参照。

 (4) JASINSKI, op. cit., II. pp. 2-6, 62-66.

 (5) Ibid., II. pp.49-51, 56-61.

 (6) この事件については、註(2)であげた研究の他、多くの研究書、解説書などでふれられているので、いちいち取り上げることはしない。

 (7) 『町人貴族』は1970年10月に、シャンボール宮での祭典の折、国王の御前で初演された。パリで一般に初めて公開されたのは翌月の11月23日のことである。ちょうどその2日前の11月21目には、モリエール劇団がパリに根拠を得て以来競合関係にあったオテル・ド・ブルゴーニュ座で、ラシーヌの『ベレニス』が初演されている。しかもモリエールは、11月28日にはコルネーユの『ティットとベレニス』を初演し、ここにいわゆる《二つの「ベレニス」競作事件》が起こることになる。その際、モリエールは『町人貴族』と『ティットとベレニス』を交互に上演するという形をとった。つまり、これはコルネーユとラシーヌの「競作」にとどまらず、モリエール−コルネーユ対オテル・ド・ブルゴーニュ座−ラシーヌという二つの勢力のぶつかり合いでもあった。もうひとつ付け加えるならば、かつてラシーヌは『アレクサンドル大王』上演にあたって、モリエール劇団に作品を委ねたにもかかわらず、オテル・ド・ブルゴーニュ座にも原稿を渡して上演させるという「背信行為」を犯している。以後モリエールとラシーヌとは敵対し続けることになるが、この点については本文でも後でふれることにする。
 なお『アレクサンドル大王』をめぐるラシーヌの背信行為、『ベレニス』競作事件、およびモリエールの『町人貴族』については次を参照。

 (8) 拙稿「ラシーヌ悲劇について − その2 − 『アレクサンドル大王』」長崎外国語短期大学「論叢」第17号(1975年)pp. 43−59 を参照されたい。

 (9) PICARD, op. cit., p.168.

 (10) この点に関しては、JASINSKIも次のように述べている。

< On conçoit maintenant l'exceptionnel intérêt de Bajazet pour les contemporains. Les initiés pouvaient saisir dans toute sa hardiesse la vérité des situations et des caractères. Un public plus étendu retrouvait aussi des événements qui tenaient large place dans les gazettes, l'écho de mille rumeurs, tout un monde autour duquel grandissaient les inquiétudes, les irritations, les convoitises, et par-dessus tout la curiosité. Comment Racine, plus que jamais attentif aux aspirations de son public, n'eût-il pas donné tout ce qu'on attendait alors d'une tragédie orientale ? > (op. cit., II. pp 61.)

 (11) < Dequis plus de vingt ans, semble-t.il, on n'avait pas représenté de tragédie dont le sujet fût emprunté à l'histoire turque.> (PICARD, op. cit., p. 169.)

 (12) その中にはメレ、トリスタン・レルミットの名もみられるが、彼らもこの時には既に過去の人であった。

 (13) ADAMは< Depuis la Renaissance, les sujets empruntés à l'histoire des sultans étaient de tradition.> (op. cit., IV. p.342.)と言っているが、少くとも悲劇の領域では《トルコ物》の「伝統」は、本文および註(11)でもみたように、一度途絶えていると考えた方がよさそうである。また、この「伝統」に従うとか、あるいは「伝統」の復活を試みようとかする意志がラシーヌにあったようにも思われない。『バジャゼ』はラシーヌにとって − 少くとも結果から考える限り − 唯一の《トルコ悲劇》となった。

 (14) Cf. SHERER, op. cit., pp. 37-46.

 (15) PICARD, op. cit., p. 169.

 (16)  < Le sujet d'Andromaque [---] n'a pratiquement pas intréssé les modernes jusqu'à Racine. Ni les historiens du théâtre classique en France, ni les éditeurs et commentateurs de Racine ne signalent d'antécédent français son Andromaque, j'entends de pièce qui ait fait figurer avant la sienne les personnages et représenté les événements de notre légende. Dans l'Italie du XVIe et du XVIIe siècle, le sujet d'Andromaque n'apparaît pas davantage. Ainsi non seulement Racine n'a pu connaître, semble-t-il, que Virgile et Euripide, dont il parle dans ses préfaces, mais on peut admettre que toute la tradition de son sujet, à savoir de l'Andromaque à cinq personnages, se limitait en fait, avant lui, ces deux auteurs.> (Paul BENICHOU, L'Ecrivain et ses travaux, Paris, José Corti, 1967. p. 220.)

 (17) 戸張智雄『ラシーヌとギリシア悲劇』東京大学出版会、1967年、p. 119 参照。また、R. C. KNIGHT, Racine et la Grèce, Paris, Nizet, s. d. (1974), p. 286. もあわせて参照。

 (18)  <--- si nous ne savions que la pièce [= les Plaideurs] est historiquement attribué à Racine -- et de façon peu contestable -- je ne suis pas sûr que tout le monde apercevrait aussitôt avec évidence qu'elle est de lui. [---] On est confondu de trouver si peu de ressemblance entre les alexandrins comiques de Racine et ses alexandrins tragiques.> ( Introduction aux Plaideurs, Pléiade, I. p. 305.)

 (19) この点については、ラシーヌ自身が Au lecteur で次のように述べているところからも想像できる。

< Cependant la plupart du monde ne se soucie point de l'intention ni de la diligence des auteurs. On examina d'abord mon amusement comme on aurait fait d'une tragédie. Ceux mêmes qui s'y étaient le plus divertis eurent peur de n'avoir pas ri dans les règles, et trouvèrent mauvais que je n'eusse pas songé plus sérieusement à les farire rire.> (Pléiade. I. p.309)


 なおPICARD. op. cit., p.140もあわせて参照のこと。

 (20) 『訴訟狂』が書かれたのは、作者の「気まぐれ」によるところもあったかもしれないが、もうひとつにはモリエールに反撃を浴びせる狙いもあった。それにラシーヌは王立劇団の俳優達からも、モリエール劇団に対抗するために、喜劇を書いてほしいと依頼されたようである。その経緯についてはPICARD. op. cit., p.142を参照。また、モリエールヘの対抗心という点についてはJASINSKI, op. cit., I. pp.239-241, 249-251, 298もあわせて参照のこと。なおこの問題については本文で改めて取り上げる。

 (21) この間の事情についてはPICARD. op. cit., p.p.101-107(特にpp.103-104)を参照。

 (22)  Cf. PICARD. op. cit., pp. 108-112; S. W. DEIERKAUF-HOLSBOER, Le Théâtre de l'Hôtel de Bourgogne, Paris, Nizet, 1968-1970, 2 vol. II. pp. 126-127.

 (23) この間の事情については PICARD. op. cit., pp.134-137 ; JASINSKI, op. cit., I. pp.206-211, 233-241 を参照。なお SUBLIGNY, La Folle Querelle ou la critique d'Andromaque (1668) については次の版を参照。

 また、この作品におけるモリエールの関与の度合いおよびラシーヌの受け取め方については、JASINSKIにならって、FOURNELの指摘をそのまま紹介することにしよう。
< La Folle querelle peut donc passer pour un acte de représailles, et on conçoit que Racine, s'il ne l'a pas attribuée Molière, ait cru du moins qu'il y avait pris part. En dehors même d'une collaboration effective, il était assez vraisemblable de penser qu'il avait pu, soit demander la pièce à un jeune auteur, soit l'accueillir avec empressement, lui donner des conseils et monter l'ouvrage avec soin. > (FOURNEL, op. cit., III. p. 488.)
 なおBibliophlileJacob(PaulLacfoix)は、FOURNELを批判し、モリエール全面関与説を主張している (cf. Préface de l'éditeur, pp.I-II, VI-VIII.) が、いずれにせよモリエールがこの作品でラシーヌに報復を加えたこと、そしてラシーヌもそれを明らかに感じ取ったに遣いないというところでは一致している。

 (24) 註(20)参照のこと。なお『訴訟狂』に付された「読者に」 Au lecteur の最後の部分は、明らかにモリエールに対する露骨なあてこすりである。

 (25) 註(7)参照。

 (26) ラシーヌが『バジャゼ』の「第二の序文」で、自分の作品が歴史上の事実に立脚していること、「トルコ人の風俗や掟について我々が知っているところをうまく表現しようとつとめた」こと、主人公たちはトルコ人の民族性 − 特にその「猛々しい気性」や情念の激しさ − を保っていることなどを強く主張しているのも、今私が述べた推測が正しければ、単なる反論ではなくなるだろう。もっとも、こうした反論の仕方自体は、ラシーヌの他の作品の序文にも共通して見られるものなので、その点は考慮に入れておく必要があろう。ただ、反ラシーヌ派からの批判のうちで、ラシーヌが最も神経をとがらせたのは、おそらく『バジャゼ』の主人公たちは、姿形はトルコ人らしくとも実はフランス人と変わらないではないか、という批判であったと私は考えている。
 なお、反対派からの批判については、 PICARD. op. cit., pp.169-173 を参照。

 (27) これまで簡単にまとめてきたところからもうかがえるように、ラシーヌはデビュー以来、ほとんど常に、劇団同士の競争あるいは個人的ないきがかりを含む特定の人物 − 例えばモリエールやコルネーユ − との対決を経験してきた。しかし、こうした事態はラシーヌ自身が好んでまいた種に由未するところがないとは言えない。モリエールとの不和の原因はラシーヌの「背信行為」にあるわけだし、またコルネーユ派やコルネーユ本人との争いも、確かに相手側からの批判や非難に反撃するためではあったろうが、ラシーヌの反発の仕方はいささか度を越している。レーモン・ピカールが指摘しているように、既に『ラ・テバイッド』の「献辞」の中でラシーヌは「敵」の存在に言及している。(cf. PICARD. op. cit., p.184. なお『ラ・テバイッド』の初版には序文は付されていない。)そして『アレクサンドル大王』から『ベレニス』までの作品に付された序文は、いずれも自作の弁護だけでなく、他からの批判に対して真向からの反駁とか、露骨なあてこすりや椰楡が必ず含まれている。その中には、誰に対する皮肉かはっきりわかるものがいくつもあって、槍玉にあげられた者たちにすればこれを読んで怒らない方が不思議なほどである。つまり、ラシーヌは批判に対しては過敏なほど反応し、すぐさま反撃に出ようとするところがあったと言えるのである。それはラシーヌ自身が実際に語ったとされる次の言葉からもうかがえる。

< --- Quoique les applaudissements que j'ai reçus m'aient beaucoup flatté, la moindre critique, quelque mauvaise qu'elle ait été, m'a toujours causé plus de chagrin que toutes les louanges ne m'ont fait de plaisir. > (Louis Racine, Mémoire sur la vie et les ouvrages de Jean Racine, Pléiade, I, p. 62.)
 このことは「想像の異端」論争の際にラシーヌが見せた振舞についても言えるだろう。彼は自分も攻撃対象にされたと思い、ポール・ロワイヤルの旧師たちに激しい皮肉を浴びせた手紙を公表したのである (cf. PICARD. op. cit., pp.119-125.)。こうしてラシーヌは結局は自分から「敵」をつくり、そしてその「敵」に対して攻撃を挑むということを繰り返しているわけである。それを思えば、ラシーヌが『バジャゼ』でモリエールを秘かに標的としたとする私の推測も、私の思いすごしではないかもしれない。
 こうしたラシーヌの攻撃的 − あるいは被害妄想からくる過剰防衛的 − 態度は、注目に価すると言える。彼は時流に敏感であったのと同じくらい「敵」の存在にも敏感であった。誇張して言えば、彼は時代の好みを察知し、それに順応するのと同じ素早さで「敵」を見抜き − あるいは自分から設定し − 「敵」側の領域に踏み込んで闘うのである。こうした彼の行動形態は『バジャゼ』に至るまでの作品に顕著にあらわれているが、『ミトリダート』『イフィジェニー』『フェードル』においても同様に示されることになると私は考えでいる。(なお『ミトリダート』『イフィジェニー』『フェードル』については註(34)〜(37)を参照されたい。)
 以上の点については PICARD. op. cit., pp.183-185 を参照した。なおPlCARDの次の指摘も参考にされたい。
< Or qu'on n'aille pas s'imaginer que ce ton agressif soit de mise à l'époque dans la vie littéraire. Les confrères de Racine n'ont pas sa violence, et leur attitude est notablement différent : bien souvent, ils ne prennent pas même la peine de répondre aux critiques, et leurs pièces paraissent avec une Epître dédicatoire, mais sans Préface. [---] Or notons que Racine a mis des préfaces à toutes ses pièces à l'exception de La Thébaïde ; et dans les éditions successives, il les a remaniées, mais jamais supprimées: toujours, il a éprouvé le besoin polémique d'argumenter, de donner ses raisons et surtout de combattre les raisons d'autrui. > (op. cit., 184-185.)

 (28) 「規則的とも言える正確さで」と私は言ったが、それは無論、ラシーヌが作品を発表する都度直面したに違いない状況を考慮に入れてのことである。ひとつの作品を書いた後、次の作品に取り組むにあたって、彼は様々なことを念頭に置いたはずである。例えば他からの批判あるいは「敵」に対する反駁、前作についての反省、新たな領域を開拓する興味と野心、時流への対応、劇団間の競合と個人的対抗心、等々。
 私にとって興味深い点は、そうした諸状況を経ながら − それゆえと言うべきかあるいはそれにもかかわらずと言うべきか、私自身判断に迷っているのだが − ラシーヌの劇作品が以下本文で見るように、古典的整合性とでも呼びたくなるほど整然たる対照=対称(コントラスト=シンメトリー)を形成しながら連続して書かれている、というところにある。

 (29) この点については既に述べた。なお註(16)も参照のこと。

 (30) 註(17)にあげた文献を参照。

 (31) Préface de Bérénice, Pléiade, I. p.465.

 (32) 拙稿「ラシーヌと単純な筋の悲劇 − 『ベレニス』註解」長崎外国語短期大学「論叢」第26号(1983年)pp. 19−48 を参照されたい。

 (33) Madame de Sévigné, Lettre du 16 mars 1672 à Mme de Grignan. citée dans Raymond PICARD, Nouveau Corous Racinianum, Paris, C.N.R.S., 1976. p. 67.

 (34) 『ミトリダート』執筆の際、ラシーヌは、コルネーユの『ピュルケリ』(この作品自体『バジャゼ』に対抗するために書かれたに違いないのだが)を念頭に置いていたはずである。また『ミトリダート』については、 < Racine se fait ici plus cornélien que Corneille. > ( PICARD, Introduction à Mithridate, Pléiade, I. p.599) と評されている点にも留意しておきたい。なおこの間の事情については JASINSKI, op. cit., II. pp.93, 99-100, 116-119 および Georges COUTON, Corneille, Paris, Hatier, 1958. pp.179-181 を参照。
参考までに付け加えると、ラシーヌとコルネーユの闘いは『ピュルケリ』の失敗と『ミトリダート』の目ざましい勝利とによって終りを告げる。コルネーユは次作『シュレナ』(1674年)を最後に劇界から引退することになる。また、もうひとりのライバルであったモリエールも1673年に世を去り、こうしてラシーヌは名実共に劇界の第一入者として君臨することになる。しかし、彼の闘いがこれで終ったわけではない。註(35)〜(37)を参照。

 (35) ラシーヌが『イフィジェニー』でもって再びギリシャ悲劇の世界に戻った理由を考えるにあたっては、トマ・コルネーユやキノーの悲劇、そしてとりわけキノーとリュリの合作によるオペラで《ギリシャ物》が次々と取り上げられ成功を収めていた、という背景を無視するわけにはいかない。ラシーヌは、これらの作品におけるギリシャ理解の浅薄さに苛立ち、またおそらくそれ以上に自分をおびやかす新たな「敵」の出現 − それも特にオペラの隆盛 −に神経をとがらせ、自分こそギリシャ悲劇の正統を知り、その伝統を受け継ぐ者であることを宣言しようとしたに違いない。
 この点に関しては JASINSKI, op. cit., II. pp.225-232 ; ADAM, op. cit., IV. pp.356 et sqq ; R. C. KNIGHT, op. cit., pp.323-333 を参照。

 (36) モリエールの死後、その劇団は指導者を失ったばかりか、有力俳優の一部も王立劇団に奪われた。更に追い打ちをかけるように、本拠地パレ・ロワイヤル座も、王命によりリュリのオペラ劇場として召し上げられることになる。その結果、モリエール劇団の残党たちはマレー座の俳優たちと合体して新たにゲネゴー座に拠り、活動を再開することになる。そしてこ
の劇団が、モリエール死後の反ラシーヌ派の拠点となり、ラシーヌの『イフィジェニー』『フェードル』に対抗する作品を上演する。
ゲルゴー座の『イフィジェニー』については PICARD, La carrière de Jean Racine, pp.226-229 を参照。

 (37) 『イフィジェニー』に続き、反ラシーヌ派はプラトンの『フェードルとイポリット』をゲネゴー座で上演させ、ラシーヌと対抗した。この「フェードル陰謀事件」については、 PICARD, La carrière de Jean Racine, pp. 230-252 を参照。

 (38) Alain NIDERST, Les tragédies de Racine. Diversité et unité. Paris, Nizet, 1975.
なお NIDERST, Racine et la tragédie classique, Paris, P.U.F. (邦訳『ラシーヌと古典悲劇』今野一雄訳、白水社「文庫クセジュ」1982年)も参照のこと。

 (39) PICARD, La carrière de Jean Racine, p. 7.

 (40) Ibid., p. 8.

 (41) Cf. SCHERER, op. cit., pp. 17 et sqq.

 (42) 先に述べたラシーヌの周期的往復運動からすれば『ベレニス』の次には『ラ・テバイッド』『アンドロマック』『ブリタニキュス』の系列に属する作品が書かれるはずである。「荘重なる悲哀」の後には「大殺戮」が来るというわけだ。

 (43) Seconde Préface de Bajazet, Pléiade, I. p. 532.

 (44) Ibid, p. 531.

 (45) いわゆるポール・ロワイヤル版『パンセ』が刊行されたのは1670年1月のことである。しかも同じ年に第二版、翌年には第三版が刊行された。「このように発行後たちまちのうちに数版を重ねたことは、当時の出版物としては異常な売れ行きであり、パスカルの遺著に対して世間の人々がいだいていた関心がいかに大きかったがを示している」(松浪信三郎訳『定本パンセ』講談社文庫、全二巻、1971年。同書下巻「解説」を参照。引用は同p497より)り『パンセ』の出版と『バジャゼ』発表の時期とを較べれば、時間的には少くともラシーヌが『パンセ』を読むことは可能だった。また、仮に読んではいなかったとしても『パンセ』が集めた関の大きさからして、ラシーヌは、この本についての噂ぐらいは何らかの形で耳にしていたに違いない。それに、ラシーヌはかつて『プロヴァンシアル』をむさぼるようにして読んだはずである (Cf. PICARD, La carrière de Jean Racine, pp.27-28)。またこの時期、彼とポール・ロワイヤルとの関係は − 和解にまでは至っていなかったが − がなり修復されてきていた (Ibid., pp.213-214)。これらの事情を考えれば、ラシーヌが『パンセ』に全く関心を払わなかったとは言い難いだろう。
ただし、改めて付け加えるが、ラシーヌがこの当時にせよ、あるいはそれ以後にせよ『パンセ』を読んだという証拠はない。ラシーヌの死後作成された財産目録の蔵書の項にも、残念ながら『パンセ』はあげられてない。 Cf. PICARD, Nouveau Corpus Racinianum, pp.446-451.

 (46) 引用は松浪信三郎氏の訳による。前掲書上巻pp. 372−373、断章416。なお、ブランシュヴィック版では、これは断章546として分類されている(ただし、最初の一行はない)。また、この断章は、Classiques HachettePensées et opuscules に添えられた Table de concordance によれば、ポール・ロワイヤル版『パンセ』にも収められていたようであるが、それ以上詳しいことは、手許の限られた本だけでは調べられなかった。私が参照し得たのは、邦訳も含め、今あげたものの他には次のものに限られている。

 (47) 「ラシーヌ悲劇について − その1 − 『ラ・テバイッド』」長崎外国語短期大学「論叢」第16号(1974年)pp. 47−64。
「同 − その2 − 『アレクサンドル大王』」同17号(1975年)pp. 43−59。
「同 − その3 − 『アンドロマック』」同22号(1979年)pp. 119−136。
「同 − その4 − 『ブリタニキュス』」同23号(1980年)pp. 119−134。
「同 − その5 − 『ベレニス』同25号(1982年)pp. 23−39。

 (48) 前掲拙稿「その4」p. 124。

 (49) 前掲拙稿「その5」p. 37。

 (50) Seconde Préface de Bajazet, Pléiade, I. p. 531.

[付記] ラシーヌのテキストは次の二つを使用した。


なお最終的には、これまでと同様、Pléiade 版全集に依拠した。


[付記] 最初にもお断りしたように、HTML文書のおよびブラウザの制約上、フランス語のテキスト部分がきれいに表示されていない場合もあると思います。HTMLやブラウザが日仏混在テキストを許容するようになったら改定したいと思っています。

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