ローマ皇帝ティテュスとパレスティナ女王ベレニスは、愛し合いながら別れねばならなかった─これが悲劇『ベレニス』の主題である。劇の素材はスエトニウスの『十二皇帝伝』中の「ティトゥス」に求められているが、『ベレニス』の主題に関連する記述は極めて少なく、それをすべてつなぎ合わせてみても、ラシーヌ自身がまとめ直した次の一文に尽きると言ってよい。
ティテュスはベレニスを熱愛し、しかも信じられていたところでは結婚まで約束していたにもかかわらず、帝位に即くや数日にして、彼の意に反し、また彼女の意にも反して、彼女をローマより送り返した。(『ベレニス』序文)
極めてわずかな素材である。この素材をもとにラシーヌは、かねてから主張してきた単純な筋による悲劇をつくり上げようとした。というよりも、単純さの限界に挑戦した。本稿で私が取り上げるのは、ラシーヌの言う単純な筋とはどういったものか、また作者はその限界にどのように挑んだか、そして最後に、こうしてつくられた作品に悲劇的格調と統一をもたらしているものは何か、という問題である。先に私は別の角度から『ベレニス』を取り上げたが(1)、そこでは、『ブリタニキュス』との対比を用いながら、双方に共通するラシーヌ的悲劇性を主に考察した。今回は、劇の構成の面から同じ作品を考えてみることにしたい。
* * * * * *
最初にラシーヌの言う≪単純な筋≫とはどういうものか、彼自身のテキストから探ってみよう。以下に引用する文章は、いずれも彼の作品に対する攻撃─それも主としてコルネーユ派からの批判─に対する反論という形で書かれたものであることを、あらかじめ断っておきたい。
私に対して向けられている最大の批判は、私の主題があまりに単純で貧しすぎるということである。(…)しかし、私の劇の各場面が充実し、互いに必然的な脈絡をもって結ばれており、どの俳優も舞台に現れる際には必ずその理由がわかるようになっていて、しかも、わずかな事件とわずかな素材でもって、劇の冒頭から結末まで彼ら〔=批判者たち〕を否応なく引きつけておくだけの作品が幸いにして書けたとすれば、彼らに不満を言われる筋合いがどこにあるだろうか。(『アレクサンドル大王』第一の序文)
これほど気難しい判事たちに御満足いただくには一体どうしたらよいのだろうか。(…)わずかな素材でつくられ、たった一日のうちに起こり、結末に向かって段階を踏んで進み、登場人物たちの利害、感情、情念によってのみ支えられているような筋のかわりに、その同じ筋を一ヶ月もかからなけれぱ起こり得ぬような多くの事件だとか、真実らしさに欠けるだけに一層人目を驚かす数々の見せ場だとか、俳優たちに自分の言わねばならぬこととは全く逆のことを言わせるような無数の大袈裟な台詞とかによって満たせばよいのだろう。(『ブリタニキュス』第一の序文)
この単純さは創意工夫のなさを示すものだと考える人びともいる。そうした人びとは思ってもみないのである。すべて創意工夫とは、それとは反対に、無から何かをつくり出すところにあり、またあのように事件を次々とつらねるやり方は、情念の激しさと感情の美しさと表現の優雅さとに支えられた単純な筋でもって5幕のあいだじゅう観客をひきつけておくだけの豊かさも力強さも自分の才能には感じられぬ詩人たちが、いつもきまって逃げ場としてきたものだということを。(『ベレニス』序文)
以上の引用からも察せられるように、ラシーヌの言う単純な筋とは、わずかな素材をもとに、たった一日のうちに起こったとしても不自然さを感じさせぬような(2)わずかな事件によってのみ構成されている筋ということになろう。そして、この筋を肉付けし、一篇の悲劇に仕立て上げるためのものとして彼が強調するのは、登場人物たちの利害、情念、感情といった人間の内面に関わる要素であり、しかも主人公の心の動きを表現する台詞はいたずらに大袈裟であったりわざとらしかったりしてはならぬ、ということだ。また、劇の各場面は「互いに必然的な脈絡をもって結ばれ」ていて、「結末に向かって段階を踏んで進」まなければならない。つまり、観客を当惑させるような劇の展開のしかた─例えば主人公の唐突な豹変とか不測の事態による状況の急変などといった≪どんでん返し≫を用いて劇を予想外の方向へ発展させたりすること─は一切認めない、というのである。
いかにも厳しい制約である。だがラシーヌは、ティテュスとベレニスの愛と別離という─最初にも見たように─無に等しいとさえ言えるほどわずかな素材に触発され、こうした制約を可能な限り受け入れた悲劇を書き上げようと試みたのである。そこには、自説の正当性を証明する見本を実際に提供してみせることでもって、コルネーユ支持者たちの批判を封じようとする意図があったに違いない。また同時に、コルネーユ自身をも実作の場で破り、それによって劇界における自己の優位を確立しようというねらいもラシーヌにはあったはずである(3)。
だが現実問題として、このわずかな素材のみを頼りに─つまりこれに文字通り何ひとつ加えることなく─5幕の悲劇をつくるのは不可能である。ジャック・シェレルが指摘するように、単純な筋とは言っても、「厳密には、ただひとつだけの筋というものは存在しない。もしもそれが幾何学における点と同様に分割不可能なものであるとすれば、劇の素材とはなり得なくなるだろう。」だから、「単純さというのは、おそらくはひとつの理想であって、近づこうとすることはできても決して到達しえぬものなのだ。一篇の戯曲をつくり上げるには、他の要素を筋に統合させながら、ひとつのまとまった筋を構成しなければならないのである。」(4)
素材から言えば、劇の主人公はティテュスとベレニスの二人だけとなり、そこで起こる事件も二人の別離にすべて集約されることになろう。単純な筋を目指す以上、いくつもの障害を設けたり、次々と事件を起こしたりする方法は最初から問題にならない。とすれば、劇は当然のことながらティテュスがベレニスに別離を宣告する場面を中心に─しかもその宣告が劇中で唯一の≪事件≫となるように─構成されるわけだが、同時に「この場面は劇中あまり早い時期に設定されてはならない。というのも、この場面は必然的に劇を大詰めへと導くことになるからである。それゆえラシーヌは、この場面をできる限り後にずらすよう工夫したのだった。」(5) だがそのためには、ティテュスとベレニスの対面ないしは対決の場面もまたできる限り少なくしなければならなくなる。別離の宣告以前に二人が何度も会うのは、単純さをそこなう筋立でも考えねば、いかにも不自然なものとなるからである。といって、二人をいつも交互に登場させるのも、作者の無能をさらけ出すようなものだろう。劇は極めて単調なものになってしまうだろうし、当然、観客の関心をひきつけておくことも困難になってくるからである。それでは、≪やま場≫に至るまでのあいだ劇的緊張をどうやって維持すればよいか、それが問題となってくる。シェレルの言う「他の要素」を導入し、ティテュスとベレニスの愛と別離という主筋にからませる必要がこうして生じてくるのである。
この問題を解決するために、ラシーヌは「二人の主人公の間に立つ第三の人物」(6)を登場させた。それがコマジエーヌの王アンティオキュスである。彼はティテュスとベレニスの双方が心を許した忠実な友であり、二人の恋の打ち明け話を聞く身である。だが彼はずっと以前から秘かにベレニスを恋している─というのがラシーヌの設定だった。
第三の人物の導入は、ほとんど無に等しい素材を支えるための必要不可欠な手段であった。アンティオキュスの存在を最大限活用することで、─すなわちベレニスとアンティオキュス、ティテュスとアンティオキュスという場面を適当に配分することで─はじめてラシーヌは、劇の大詰め近くに設定される別離の宣告の場までティテュスとベレニスの対面を極力回避しながら、なおかつ劇的緊張感をそこなわずに観客の興味をつなぎとめてゆく方法を見出したのである。
その方法が具体的にはどういうものであったかについて述べる前に、ここで強調しておきたいのは、ラシーヌが劇作術上避け難い譲歩を行ったのはここまでだった、ということである。例えば主人公─より厳密には主要人物とすべきだろう、なぜならこの劇の真の主人公はやはりティテュスとベレニスの二人だからである─の数はアンティオキュスを加えて三人となるが、これは今まで見てきたところから考えても必要最少限の数と言えるだろう。しかも、単純な筋を一貫して標榜し続けたラシーヌ自身の作品を例にとっても、他の悲劇ではすべて四人あるいはそれを超える主要人物が登場しているのである(7)。主要人物の数が多くなればなるほど劇中の人物関係が複雑となり、その分だけ副次的な筋も増すことになるのは避け難い。その意味で、ラシーヌが『ベレニス』において登場人物の数を最少限にとどめている事実にも、単純な筋に対する作者の意欲がうかがえると言えよう(8)。
それでは『ベレニス』は具体的にはどのような状況のもとに、どういった筋立で展開されることになるのだろうか。
まず劇の背景をなす状況だが、ティテュスは父ヴェスパジアン帝の死によって新たに皇帝の座に即いたところである。政治上の不安は一切ない。反乱は既にティテュス自身の手によって鎮圧された後だし(I. 3 - 4)、ティテュスの即位を喜ばぬ者もいない(I. 5.)という設定である。しかしラシーヌは、ティテュスとベレニスの愛をはばむ障害をひとつだけ用意した。それは王族に対するローマの根強い敵意であり、異国の女性との結婚をタブーとするローマの掟である(I. 5、II. 2)。ローマはティテュスとベレニスの愛を快く思わず、二人の結婚には明らかに反対している(II. 2)。だからティテュスとベレニスは別れねばならない、それが他ならぬローマの意志だからである、ということだ。そしてラシーヌはこのローマの意志を、ティテュスが何故「彼の意に反し、また彼女の意にも反して」ベレニスと別れねばならなかったのかという問いに対する答えとした。ティテュスは皇帝に即位した。彼はローマを、そして全世界を統治する重責を負ったのである。その彼がローマの意志に反し、その掟を踏みにじるような行為に走ることは断じて許されない。自己の名誉だけでなく、ローマの栄光と全世界の運命がティテュスの決意にかかっているからである。それゆえ、いかにベレニスを愛していようと、ティテュスは彼女と別れる運命を受け入れる他なかった。ティテュスの悲劇はまさにそこにあったのだ、とラシーヌは強調するのである(9)。
劇が始まる以前にティテュスの心は決まっている。それは人から強いられたものでもなければ、不穏な情勢ゆえにやむなく受け入れたものでもない、他ならぬティテュス自身が皇帝の義務として苦悩の末に選び取ったものだ、とラシーヌは設定している(II. 2、III. 1、IV. 5)(10)。この設定は、余分な人物を加えず筋立も複雑にしないようにとの配慮からなされたことと言ってよいが、同時にティテュスの決意の重みを増す意味も含んでいる。なぜなら、これによってティテュスは自ら退路を断ち切ってしまったばかりか、ベレニスの運命をも決定づけてしまったからである。
こうして結末は、既に劇が始まる以前に定められてしまい、あとは、いつティテュスがベレニスに別れよと命ずるかが残されるのみである。従って、筋立そのものは極めて単純化されたと言えるだろう。しかし、「決意から実行への道は遠い」(11)こともまた確かである。ティテュスとベレニスの別離は避けられぬにしても、彼らはその運命を受け入れるまでの間、5幕にわたって不安、恐れ、苦悩、絶望といった感情をすべて味わい尽くさなければならない。というのも、わずかな素材による単純な筋を支えるものこそ、先に引用したラシーヌ自身の主張にあるように、登場人物たちの「感情」「情念」のドラマに他ならぬからである。そのドラマがどのように構成されているか、今度は劇の筋を追いながら見てゆくことにしよう(12)。
劇が始まった時点では、ティテュスの決意は明らかにされていない。逆に第1幕では、観客は、今日のうちにもティテュスがベレニスを正式に皇后に迎えることになるであろうと知らされる(I. 3)。そしてベレニスも、ティテュスとの結婚がついに実現するものと信じ切っている。
とはいえ、不安がないわけでもない。ティテュスの態度がこれまでとは異なり、彼女を避けようとする様子さえ見えるからである。
この数日、涙に目を曇らすこともありました。
ティテュス様が宮廷に命じられたあの長い喪のあいだ、
私への愛も、人目を忍んでお示しになることさえ断たれてしまいました。
私から片時も目を離さず日々を過ごされたあの頃の
あのひたむきな情熱を、もう私には見せて下さいませんでした。
口もきかず、物思いに沈み、涙ぐんで、私に下されるものといえば、悲しい別れのお言葉のみ。
お察し下さいませ、この苦しい胸のうちを…(I. 4)
それに、ローマが二人の結婚を快く思っていないのも気にかかる。ラシーヌはそれを、ベレニスの腹心フェニスを通じて語らせている。
ティテュス様はまだお考えをはっきりお示しではありませぬ。
ローマはあなた様を嫉み深い目で見ております。
ローマの掟の厳しさが気がかりでなりませぬ。
ローマ人の間では、結婚の相手はローマの女しか認めておりません。
ローマは王位にあるものすべてを憎んでいます。ところがベレニス様は女
王でいらせられる。(I. 5)
もしもティテュスがローマの掟に屈したら… しかしベレニスはそうした懸念を払いのけようとする。ティテュスはベレニスを愛している。しかも彼は今や皇帝である。だから
今はもう、フェニス、心配せずともよいのです。
ティテュス様は私を愛している、あの方にはどんなこともできるのだから、あとはお言葉を賜るだけのこと。(I. 5)
こうして第1幕は、ティテュスとベレニスの結婚という幸福な結末への期待を観客に抱かせながら、しかし同時に一抹の不安も残しつつ終る(13)。
だが第2幕になると、もはや幸福な結末はあり得ぬことが、少なくとも観客にはわかってくる。ここではじめてティテュスが登場し、その胸中を明かすのである。ベレニスとの結婚を断念し、彼女をローマより去らせる決意であると。
私はこの身に課せられた務めの重さを知ったのだ。
思い知らされたのだ、ポーラン、愛するひとのものとなるどころか、やがては
自分の身をも捨てねばならないと。
神々の思し召しは、私の恋をよしとされず、
残る生涯を全世界のために投げ出すよう定められたと。(II. 2)
ティテュスはこれまで何度も心のうちをベレニスに打ち明けようとしたが、果たせずにいる。しかし今日こそは「沈黙を破らねばならぬ」(II. 2)と思い定めているという。
第1幕で暗示された不安はこうして観客の目には現実のものとなるが、そうとは知らぬベレニスは、思いきってティテュスに会い、心の動揺を静めてくれるような言葉を彼自身の口から聞こうとする。ここでティテュスとベレニスの劇中最初の対面の場が設定されることになるが(II. 4)、ラシーヌは既に見た理由からこれを≪別離の宣告の場≫とすることは避けている。無論ティテュスはベレニスが期待するようなことは何ひとつ語らないし、また語れない。しかし、いざベレニスを目の前にすると、口ごもりためらうばかりで、先ほどの決意とは裏腹に、ついにここでは別れを宣告することもできぬまま、逃げるようにしてその場を去るのである。
ティテュスがこの場面ではまだ真意を明かすことができぬのは、ひとつには劇作術上の要請によるものだが、もうひとつには彼の狼狽ぶりを通じて、別れねばならぬと知りながら─というよりは、そうと知っているからなおのこと─残酷な命令を下すことのできぬティテュスの心情を観客にも印象づけようとする作者の配慮があったと見てよい。
ベレニスは、思いもよらぬティテュスの態度に、一層不安をつのらせる。
もしやあの方はローマの憎しみを恐れているのでは?
異国の女王との結婚に不安を感じておいでなのかもしれぬ。
ああ! もしもそれが本当なら… いいえ、そんなはずはない、幾度となくあの方は、
ローマの厳しい掟からこの恋を守ってみせると言って下さったのだから。
幾度となく… ああ! この恐ろしい沈黙の謎を解き明かしてほしい。
不安で息も詰まりそう。(I. 5)
しかしベレニスはなお希望を失ってはいない。というよりは、希望を失うまいとして、ティテュスの不可解な態度は単なる誤解から生じたものにすぎないのだ、誤解さえ解ければ万事はうまくゆくに違いない、と自分に言いきかせる(14)。
だが、ティテュスの決意を既に知っている観客には、誤解しているのはティテュスではなく、実はベレニスであることがはっきりわかるのである。そして誤解が解け真相が明らかとなったときベレニスが見出すものは絶望でしかないはずだということも。
いずれベレニスは真実を知ることになろう。それをいつ、どのようにして知るか、またその時ベレニスは、そしてティテュスはどうするのか─それが第2幕が終わった時点で問題となることである。
ベレニスは再びティテュスに会い、彼の真意をただすに違いない。そしてその時、劇は大詰めへと向かうことになるはずである。しかしラシーヌはその前にもうひとつ段階を用意する。第3幕がそれである。
ティテュスは自分の口からはベレニスにローマを去れと宣告することはできない。そこで、アンティオキュスに心を打ち明け、彼からベレニスに自分の意を伝えてほしいと頼む(III. 1)。アンティオキュスは、ベレニスにとって─また彼自身にとっても─残酷なこの役割から逃れたいと思うが(III. 2)、心ならずもベレニスにティテュスの命令を伝えざるを得なくなる(III. 3)(15)。
ベレニスにはアンティオキュスの言葉が信じられない。
別れる? 誰が? 私が? ティテュス様がベレニスと!(III. 3)
あれほど誓っておきながら、ティテュス様が私を捨てる!
固く誓って下さったティテュス様が… いいえ、私には信じられませぬ。
あの方は私と別れたりはなさいませぬ、それでは名誉にもとるというもの。
これは罪もないあの方を誹謗するたくらみです。
私たち二人の仲を裂こうとする罠に違いありません。
ティテュス様は私を愛している。私に死ねとおっしゃるはずがない。(III. 3)
「いいえ、私には信じられませぬ」─これがベレニスの反応である。ティテュスがこれほど残酷な命令を下すはずがない。だからこれは、自分を恋するアンティオキュスがたくらんだ罠に違いない。そうベレニスは信じようとする。また、そう信ずることで辛うじて自分を絶望から救おうとする。ここで今、彼女を支える唯一の望みは、この命令がティテュス自身の口から宣告されたものではないということである。だから何としてもティテュスに会わねばならない。
あの方に会いにまいりましょう。すぐにでもお話ししたいのです。(III. 3)
しかし、観客は既に知っているのである。今度ベレニスがティテュスに会う時は、彼女に残された最後のかすかな期待さえ打ち砕かれる時なのだということを。それだけに、ベレニスがこの場を退く時に語る
ああ、たとえ嘘でも信じたい、そのためならどんなことでもしよう。(III. 3)という台詞も、観客の耳には一層痛切な皮肉に響くのである。もはやティテュスは直接ベレニスに真実を語るしかない─それが観客には手にとるようにわかるからである。
こうして第4幕における≪別離の宣告の場≫ヘの準備はすべて整えられたわけである。主題から考えても─またこれまでの劇の進行から見ても─当然これが劇の≪やま場≫となるわけだが、ここに至るまでラシーヌはどのようにして劇的状況を盛り上げ、観客の関心をつないできたのだろうか。
その方法とは、ベレニスの運命にかかわる情報を常に観客がベレニスよりも先に知り、観客にとっては既知の事実─ないしは十分に予測可能な事態─をベレニスが知らぬために生ずる≪ずれ≫を最大限利用することであった。第1幕ではベレニスは、一抹の不安はあるものの、ティテュスとの結婚がすぐにも実現するはずと信じていた(16)。しかし第2幕、第3幕へと進むにつれて、各幕ごとに正確に段階を踏みながら、彼女は不安から絶望へと追いつめられてきた。その過程が観客にも明らかに見てとれるばかりか、ベレニスが一歩一歩≪真実≫へと近づく度に示す動揺と焦燥も、更にその先に待ちかまえているはずの決定的な打撃への≪小手調べ≫にすぎぬことも予測できるのである。つまりラシーヌは、これから先何が起こるのかという興味ではなく、起こるに違いないと前もってわかっている事態がいかにして起こるのかという一種残酷な期待感によって観客の関心をつなぎとめる方法をとったのである(17)。第3幕でベレニスがアンティオキュスを通じ間接的にティテュスの決意を知らされるという設定も、ひとつには≪やま場≫を後にずらすためのつなぎと解することができるが、もうひとつにはここでなおベレニスに一縷の望みをつながせておき、その上で最後のとどめを刺そうという、用意周到な準備ともなっているのだ。
こうして見てきたところからも察せられるように、まさにこれは、「わずかな素材でつくられ、たった一日のうちに起こり、結末に向かって段階を踏んで進み、登場人物たちの利害、感情、情念によってのみ支えられているような筋」(『ブリタニキュス』第一の序文─前出)の見本とも言えるものであろう。
そして第4幕だが、ここでついにティテュスはベレニスに告げることになる。「二人は別れねばならぬ」(IV. 5)と。ティテュスはベレニスを懸命に説得しようとする。しかし、最後の望みも断たれたベレニスには、ティテュスの訴えに心を開く余裕などなく、絶望のあまり彼を激しくなじり、別れるくらいならむしろ死を選ぶと言い残してその場を去る。
いいえ、あなたはどんな残酷なことでもなされるお方。
情を知らぬあなたこそ、私の命を奪うにふさわしいお方です。
(…)
これほどの愛がお心から消え去るはずはありますまい。
今の私の苦しみも、これまでの私の心遣いも、
この宮殿で流そうとさえ思う私の血も、
すべてあなたに残してゆく敵となるでしょう。
ひたむきに愛したことは悔やみませぬ。
こうして残して行くものに、復讐はすべてまかせましょう。
お別れいたします。(IV. 5)
事態は最悪の局面を迎える。このままではベレニスは自殺するだろう。だが、ティテュスが彼女をこのまま打ち捨てておくはずはないし、劇の主題そのものから考えてもベレニスの死は回避されねばならない(18)。こうして劇は、第5幕の大詰へと移ってゆく。
第5幕が始まってすぐ、ベレニスがティテュスの仕打ちを怒り、今すぐにもローマを去る決意を固めたとの報せが伝えられる(V. 2)。これは観客にとっていささか意外な展開であろう。第4幕で自殺を口にしたばかりか(IV. 5)、舞台を退いたあとも狂乱状態に陥り今にも死を遂げかねないと伝えられたはずの(IV. 7 アンティオキュスの台詞参照)ベレニスが、怒りゆえとはいいながら、こうも急に心を変えられるものだろうか。しかも、このままゆけば、劇は第4幕での緊張感を裏切るあっけない幕切れを迎えかねない(19)。
ここでラシーヌは再びティテュスとベレニスの≪対決≫の場を設定する。ティテュスは改めて訴えるのである。愛する心は少しも変わっていない。そればかりか、「いまだかつて、これほどまでにあなたをいとおしいと思い愛したことはなかった」(V. 5)と。しかし、ベレニスは頑な姿勢を崩さない。だがここで、ティテュスはベレニスの手紙を取り上げ、彼女の出発は自殺の決意を隠す口実であったと知る(20)。
そうと知ったティテュスが最後に訴える手段は一種の脅迫である。別れる運命を避けることはできない。だがもしもベレニスがあくまで死ぬと言うのなら、自分も生きてはいられない、「私の命も、今となってはあなたが決めること」(V. 6)なのだと。
ティテュスと別れねばならぬ、しかもそれをティテュス自身から宣告された─それがベレニスにとって絶望の極みだったはずである。ところがラシーヌは、第5幕で彼女を追いつめる最後の≪段階≫を用意したのであった。つまり、今や死によって絶望から逃れる道も閉ざされているのだということを。
こうして劇は最終場を迎えるのだが、ここでアンティオキュスが再び登場し(21)、この劇ではじめて主要人物三人が舞台上に揃うことになる。また、ここではじめてアンティオキュスはベレニスへの恋をティテュスにも打ち明ける(22)。
ラシーヌが最終場にアンティオキュスを登場させた理由は、アンティオキュスの恋という脇筋を主筋に完全に統合するためである。ティテュスがアンティオキュスの真意を知らぬまま劇が終わるのはいかにも不自然であり、「筋の単一」の規則にも反するからである(23)。それに、主人公の誰かが死あるいは他の理由から大詰以前に舞台から姿を消す必要がある場合はともかく、そうした必然性がない限り、主要人物がすべて揃ったところで大詰となる方が劇的効果においても勝っているし、またそうだからこそ大詰と言えるのである。それはともかく、アンティオキュスが最終場で果たす最大の役割は、その心情と決意を告白することによってベレニスに最後の決意─それがこの劇を完成させるものとなる─をうながすきっかけを与えるところにある。また同時に、彼の告白は、ベレニスに動揺から立ち直るために必要な時間を与える意味も持っていた。それを詳しく見てゆくことにしよう。
第5場と第6場はティテュスとベレニスの最後の≪対決≫の場面であった。この≪対決≫にティテュスはベレニス説得のすべてをかけている。特に第5場の最後でベレニスが自殺を決意していると知ったティテュスは、次の第6場では、ほとんど脅迫に近い調子で訴えながら、心情をすべてさらけ出している(24)。だが、見方を変えれば、この場をもってティテュスは語るべきことを語り尽くしてしまったとも言える。だから最終場ではもはや彼にはそれ以上語る言葉はないのである(25)。
今度はベレニスが語らねばならぬ時である。しかし、今まで死を思い詰めていた彼女には即座に答えることはできない。第6場でベレニスは、もはや反駁する気力さえないまま、ティテュスの懇願と訴えをただじっと聞くことしかできなかった(26)。その彼女が気を取り直し、再び口を開くまでには、それ相応の時間的余裕ときっかけがなければならない(27)。それゆえここで≪第三の人物≫の登場が不可欠となってくるのである。
アンティオキュスはティテュスに告白する。
すべてを明かす時が参りました。
そうです、陛下、私はこれまでずっとベレニスを愛し崇めてきたのです。(V. 7)
彼はティテュスの≪変心≫を知り、一瞬はかない望みを抱きもした。だが今あらためて二人の愛の強さを知り、自分の恋が成就する余地のないこともまた思い知らされたと言うのである。
女王の涙を見て、その望みも消えました。
涙にぬれたその目は、あなたに会いたいと語っていたのです。
それで私は、陛下、自らあなたをお迎えに参りました(28)。
あなたは戻っておいでになった。あなたは愛しておられる、愛されておられる。
お二人は恋に従われた、それは疑いようもありませんでした。(V. 7〉
ティテュスとベレニスの恋が生まれて以来五年のあいだ、アンティオキュスは自らの恋を押し殺し、忠実な友として二人の恋の証人という役を務めてきた。そして今彼はその役割を全うするために、ティテュスとベレニスに対し─また観客に対しても─二人が今なお愛の絆で固く結ばれていることを証言したのである。つまりこうしてアンティオキュスは、もはや語るすべをもたぬティテュスに代わり、その愛が少しも変わってはいないのだと改めてベレニスにも証明する役割を演じたわけである(29)。そして彼はもうひとつの役割─すなわち、沈黙したままのベレニスに再び口を開かせるきっかけを与えるという役割─を果たすことになる。アンティオキュスは二人にこう告げる。
これを最後と、私は己れの心に尋ね、
己れの勇気に最後の試練を課してみたのです。
あらん限りの分別を呼び戻しもしました。
だが、今ほど激しく恋したことはなかったと思い知らされたのです。
これほど強い絆を断とうとすれば、別の努力が必要です。
死ぬよりほかに、これを断ち切ることはできますまい。
急ぎ身を処す覚悟です…(V. 7)
もしもベレニスがあくまで死のうとすれば、ティテュスもその後を追うであろう。更に追い打ちをかけるかのように、今またアンティオキュスが死の決意を打ち明けたのである。ティテュスはベレニスの答えを待っている。そしてアンティオキュスも、すべてを語り終え、死に場所を求めて立ち去ろうとする。ここに至ってベレニスは立ち上がり、再び口を開くのである。
おやめ下さい。行ってはなりませぬ。いかに気高いお心とはいえ、それはあまりというもの、
あなたがたお二人は、なんという苦しみに私を追いつめたことでしょう。
あなたのお顔にも、ティテュス様のお顔にも、
絶望の影ばかりが浮かんでいる。
目にするものは涙だけ、耳にすることは正気を失った恐ろしい企て、血なまぐさいお話しばかり。(V. 7)
もはやベレニスしか語る者は残っていない。彼女が語らねばならぬ時が来たのである。こうしてラシーヌは、観客にも不自然さを感じさせぬようにしながら、ベレニスに劇の結末を決定する役割を委ねる。そしてベレニスは決意を明かす。ティテュスとアンティオキュスを二人ながら死に追いやることはできない、だから私も死を断念し、別れて生きてゆきます、と。
ベレニスはまずティテュスに告げる。
愛しておりました、陛下、愛しておりました、愛されたいと願っておりました。
隠さずに申し上げましょう、今日、私は不安におびえておりました。
あなたの愛が終わるものと信じたからでございます。
今それがあやまりだったとわかりました、あなたは変わることなく愛して下さっているのですから。
(…)
この五年のあいだ、今日という最後の日まで、
私はまことの愛を誓ってきたと信じております。
それだけではありません。今この忌まわしい時、
最後の力をふりしぼって、終りを飾りたいと思います。
私は生きてゆきます。絶対の御命令に従います。
お別れいたします、陛下、見事御統治下さいませ。もうお目にはかかりませぬ。(V. 7)
そしてベレニスはアンティオキュスにもこう告げる。
生きていて下さいませ、気高い努力をご自身に課して。
ティテュス様と私とを、どうか見習って下さいませ… (V. 7)
愛しながら別れるという主題は、こうして、愛するがゆえに別れるというべレニスの決意と共に完成された(30)。劇の開始以前になされたティテュスの決意から、最終場におけるベレニスの決意に至るまでのあいだ、これまで見てきたところからもわかるように、劇的状況は幕を追うごとに正確に段階を踏んで深刻化してきた。確かに第5幕ではベレニスがローマを去るという誤報に続き、ベレニスの手紙から真相が明らかになるという≪どんでん返し≫が用いられはした。また主人公が相次いで自殺を決意するという≪波乱≫があったのも事実である。だがそれは、突然に起こった事件というよりは、ただ悪化するばかりの状況を打開する方法もないまま動揺し絶望を深めてゆく主人公たちの追いつめられた心理ゆえに生じた事態とむしろ言えるだろう。観客の目にもこれは不自然と映るよりは、ありうることと見えるはずである(31)。単純な筋は最後まで貫かれたと言ってよいだろう。
最後にアンティオキュスの役割を改めて考えながら、ラシーヌが『ベレニス』の悲劇的格調を何に求めたかを述べてみたい。
『ベレニス』の悲劇は、ティテュスの決意によって幕が開き、ベレニスの決意によって幕を閉じる。アンティオキュスという≪第三の人物≫が加わりはしたが、彼は終始一貫して忠実な友、ティテュスとベレニスの恋の証人という役割をつつましく演ずるにとどまっている。そして、脇筋をなす彼の恋が、主筋を乱すような局面を迎えることもまたなかった。例えば最終場におけるベレニスの決意にしても、アンティオキュスの告白がそれを引き出すきっかけになっていることは事実だが、それ以上の意味をもつものとは言い難い。ベレニスが別離を受け入れるのも、ティテュスの自己犠牲を完成させるためであって、アンティオキュスに対する配慮はほとんど付け足しと断じてもよいほどである(32)。それは、この劇の主題があくまでティテュスとベレニスの愛と別離にあり、ドラマも厳密にはこの二人によってのみ演じられるべきものだからである。それゆえ、アンティオキュスが自己の存在を主張できる領分は最初から極めて限られており、劇の空白を埋め、場面をつなぐ以上の役割は、少なくとも筋立に関してのみ言えば、そもそも要求されていなかったのである。その意味において、「彼は単なる劇的仲介者、格上げされた腹心の友にとどまる」(33)というピカールの指摘は正しいと言えるだろう。
しかし、アンティオキュスという存在のもつ意味はそれにとどまるものでは、決してない。確かに彼にはティテュスとベレニスの二人に比肩する≪地位≫は与えられていない。だが彼は劇の「雰囲気をかもしだす人物」として「劇に色合いを与える」役割も担っている(34)。そればかりか、アンティオキュスという人物の基本的性格をなしている≪忠実≫、そして彼の行動を特徴づけている≪献身≫と≪自己犠牲≫とは、『ベレニス』の主題を支える基調ともなっているのである(35)。というのも、アンティオキュスが劇中一貫して示す≪忠実≫≪献身≫≪自己犠牲≫というモチーフは、ローマに対する≪忠実≫を誓ったがゆえにベレニスヘの愛を≪犠牲≫にする他なかったティテュスの決意と、また別れねばならぬと知りながらベレニスへの愛においてはあくまで≪忠実≫であろうとするティテュスの心情とに対応すると共に、ティテュスヘの愛の≪忠実≫の証しとして別離を決意したベレニスの≪自己犠牲≫とも正確に対応するものだからである。そして、愛しながら別れねばならぬ主人公二人の苦悩は、アンティオキュスの苦悩によって増幅され、より一層鮮明に浮き彫りにされるからである。もしも『ベレニス』を音楽にたとえれば、これはトリオ・ソナタと言えるだろう。その主旋律を奏でるのがティテュスとベレニスであり、アンティオキュスは通奏低音を担うというわけである。そしてそのライトモチーフをなすものは、成就することなき愛の不幸であり、別離の悲哀に他ならない。
しかも『ベレニス』のライトモチーフを最初に提示するのはアンティオキュスである。
ベレニスはその昔、私からすべての希望を奪い去った。
そればかりか、私に永遠の沈黙を命じたのだ。(I. 2)
「すべての希望」を奪われ「永遠の沈黙」を課せられる─それが劇の冒頭で早くも語られ、しかも劇の結末で再確認されるアンティオキュスの運命である。だが、これは同時にティテュスとベレニスの運命でもなかったろうか(36)。また、アンティオキュスの次の独白
長いあいだ抱き続けた変わらぬ心の不運な鑑、はベレニスに語りかけられているものだが、これはそのまま最終場でベレニスがティテュスに語りかける言葉としてもよさそうである。あるいは次の台詞にしても、ティテュスが語ったとしても不思議はないとさえ言えぬだろうか。
五年にわたるむなしい恋と希望の果てに、
私は去ってゆくのです、望みを断たれた今もなお忠実なまま。(I. 2)
いずれにしても、話すことだ。耐えるだけ耐えてきたのだから。
それに、望みをなくした恋人に、何を恐れることがあるだろう。
二度とお目にはかからぬと、覚悟はできているではないか。(I. 2)
それゆえ私は参ったのです、永遠のお別れを申し上げに。(I. 4)
そしてベレニスを失った苦しみを過去形で語るアンティオキュスの有名な台詞
荒涼としたオリエントの地で、どれほど苦しんだことでしょうは、永遠の別れの後に来るはずの苦悩を未来形で語るティテュスの
長いあいだ、私はセザレの町をさまよい続けました。
あなたを恋し崇めたあのうるわしい町を。
あなたの不在を悲しむ国々に、あなたの面影を求め、
涙にくれながら、あなたの歩まれたあとをたどったのです。(I. 4)
もしも私の心を支配し、私の心の中で生き続けたいという望みが、という台詞、さらにはベレニスの
あのひとのつらい不幸を和らげてくれるものなら、
ああ、王よ、あのひとに誓ってほしい、いつまでも私は忠実を守りますと。
私の宮廷にありながら、あのひとにもまして流謫の身を嘆き悲しみ、
墓の中まであのひとを恋した男という名を担ってまいりましょう。
私の治世も、長い流刑と変わるところはありますまい…(III. 1)
一月ののち、一年ののち、どう耐えてゆけましょう、という、これもまたラシーヌ悲劇を代表する名台詞と呼応しながら、「悲劇の楽しみのすべてをなすあの荘重なる悲哀」(『ベレニス』序文)を生み出しているのである。ラシーヌがアンティオキュスに与えた役割─単純な筋を支えるというのとは別のもうひとつの重要な役割─は、やがてティテュスとベレニスの二人によって歌い上げられるはずのテーマを準備し、支えるところにあったと言えるだろう。そしてもうひとつ見逃すことができぬのは、ただ一度、第4幕第7場の切迫した語調を除いては(37)、アンティオキュスが語る詩句は常に≪悲哀≫の調子に統一されているという点である。この調子は最終場のベレニスの台詞によって劇全体を貫く基調にまで高められることになるが、それはまさに第1幕でアンティオキュスが過去形で歌い上げた≪愛する人の不在≫というモチーフが、今やティテュス、ベレニス、アンティオキュスの未来をも支配することが確実となったからに他ならない。
陛下、はるかな海が遠く二人をへだててしまうのを。
一日がまた始まり、そして一日が終わる、それなのに
ティテュス様はベレニスと会うこともできず、
ベレニスもティテュス様に会えぬまま、長い一日が過ぎてゆくのを。(IV. 5)
ラシーヌは『ベレニス』という流血も死者もない悲劇を書くにあたり、劇の基調を≪悲哀≫に定めた。それがこの極度に動きのとぼしいドラマに悲劇としての格調を与える唯一の方法であると考えたためであろう。単純な筋という制約に加えて、流血も死も悲劇の結末に使えないというもうひとつの制約が、そこには大きく働いていたはずである。なぜなら、主題から考えてもこの劇で殺人が犯されるような設定はそもそもありえないし、また主人公が自殺を遂げることも許されないからである(38)。従って、主人公の情念がいかに激しかろうと、それに盲目的に身を委ねることはできないし、また絶望がいかに深かろうと、死によってそこから逃れることも許されない。最後には情念を抑制し、絶望を受け入れて生き続けねばならぬというのが彼らに課せられた運命だからである。そして、ただひたすら苦悩に耐えるしかないと思い知らされた時に主人公たちが─また彼らを見る観客たちが─心に抱く感情こそ≪悲哀≫に他ならない。その≪悲哀≫は、主人公たちが耐えてゆくはずの苦しみが、やがて彼らに訪れるであろう死をも超えて、未来永劫にわたり果てしなく続くものと観客にも感じさせるならば、ラシーヌの主張した「荘重なる悲哀」にまで高められることになろう。
お別れいたします。私たち三人が世の人々に、
切なくも不幸な恋のまたとなき鑑となり、
その悲しい物語がいつまでも語り伝えられますように。(V. 7)
最終場でベレニスが語るこの言葉は、同時に作者ラシーヌ自身が観客に─そして恐らくは後世に対しても─訴えかけた願いでもあろう。これまで見てきたように、ラシーヌは単純な筋の限界に挑み、その見本とも言うべき作品を書き上げた。ただ、いかに単純な筋を貫いたとしても、その試みが真に成功したか否かは作品全体の質にかかってくるのは言うまでもない。今引用したベレニスの─つまりは作者の─訴えが観客に受け入れられ、しかもティテュスとベレニスの愛と別離という主題が後の世まで悲劇的主題のひとつに数えられるに至った時、はじめてラシーヌの試みは成功したと言えることになるのである。その答えは、悲劇『ベレニス』が今日もなおラシーヌの傑作のひとつとして生き続けているという事実をもって代えることにしよう。
註
(l) 「ラシーヌ悲劇について─その5─『ベレニス』、長崎外国語短期大学「論叢」第25号(1982年)pp. 23 - 39. 〔以下「その5」と略す〕
(2) これは、フランス古典劇の有名な「三単一の規則」règles des trois unités のうちの「時の単一」unité de temps にかかわる問題である。「三単一の規則」とは、簡単に言えばボワローの次の詩句
Qu'en un lieu, qu'en un jour, un seul fait accompliに象徴されるものである。すなわち、「時の単一」に関して言えば、理想的には劇の中で経過する時間と現実の時間とが一致することを求めたのがこの規則であり、他の二つの規則「場所の単一」 unité de lieu 、「筋=劇行為の単一」 unité d'action も、これとの関連において要求される事柄である。(なお unité の訳語としては、ここで採用した「単一」の他に「一致」「統一」が用いられることもある。)
Tienne jusqu'à la fin le théâtre rempli.
(Boileau, Art poétique, chant III, vers 45 - 46)一つの場所で、一日のうちに、ただ一つのことのみがなしとげられるように
舞台を最後まで満たしておかねばならぬ。
( ボワロー『詩法』第三、45-46行)
(3) 同一の素材をもとに、しかも同じ時期に、ラシーヌは『ベレニス』を、コルネーユは『ティットとベレニス』を発表した。このいわゆる≪競作≫事件には不明な点が数多くあるが、少くともこれが偶然のなせる業でないことだけは確かだと言ってよい。つまりラシーヌとコルネーユはここで文字通り≪対決≫したのであった。その結果はラシーヌの全面的勝利に終り、これによってラシーヌはコルネーユに代わって、劇界第一人者の地位についたのである。
なお、この≪競作≫事件については、渡辺守章氏がその概要と主な問題点を見事に整理している(「『ベレニス』解説」、『ラシーヌ戯曲全集II
』白水社、1979年、pp. 505 - 528.)ので、参照されたい。
(4) Jacques SCHERER, op.
cit., p. 94.
「筋の単一」の規則は、シェレルの指摘からもわかるように、「他の要素」─例えば脇筋─の存在を全く否定するものではない。問題は、それをいかに主筋に統合し、全体としてひとつの筋を構成しているかのごとく印象づけるか、ということだ。つまりこれは、観客の関心を一点に集中させることを原則とする劇作術なのである。
(5) Raymond PlCARD, " Propos sur Andromaque, Bérénice, Bajazet ", dans De Racine au Parthénon, Paris, Gallimard, 1977. p. 80.
(7) 主要人物がわずか三人というのは、フランス古典悲劇の劇作術から見て限界を示す数だと私は思う。≪単純な筋≫という一点に限っても、ラシーヌがこれを代表する劇作家であったことは、当時の目からも、まず間違いないだろう。そのラシーヌでさえ、三人の主要人物による悲劇を書いたのは『ベレニス』が最初でまた最後であったという事実は極めて暗示的である。
ラシーヌの全悲劇における主要人物表をあげると次のようになる。
[付記]作品名のあとの( )内の数字は登場人物の総数である。この数字に関しては、SCHERER, op. cit., p. 441も参照。なお[ ]内に加えられた人物は脇役(ビュリュス)や腹心役(ナルシス、エノーヌ)でありながら、劇の展開を左右する重要な役割を演ずる者である。なお『ベレニス』の登場人物の総数は7人であり、これは『ブリタニキュス』『バジャゼ』『ミトリダート』と同数、また『アレクサンドル大王』よりも1人多い数となるが、ラシーヌは筋を単純化するために主要人物をできるだけ少くした分を埋めるために、腹心役や端役を必要とし、その結果、総数まで減らすことはできなかったと考えてよい。だが、端役は無論のこと腹心役にもその役柄を超えるような行動は一切とらさず、劇の展開を担うのはあくまでティテュス、ベレニス、アンティオキュスの3人にとどめたという意味では、ラシーヌは登場人物についても実質的にはわずかな数におさえたと言えるだろう。(「腹心」の役柄についてはSCHERER, op. cit., pp. 39 - 50 を参照。)
(8) コルネーユは『ティットとベレニス』においてティット(=ティテュス)、ベレニス、ドミシアン、ドミシーの四人を主要人物として登場させている。筋立も、ラシーヌの『ベレニス』と較べると、はるかに複雑である。その是非を論ずる以上に、両者の作風の違いがこうした点にもはっきり表われていると言うべきであろう。
(9) この問題については、詳しくは「その5」を参照されたい。
(10) この設定によって、ラシーヌは、一見コルネーユ流の悲劇にこそふさわしそうな素材を、ラシーヌ流の悲劇へと変えてもいる。帝国の運命、名誉あるいは義務と愛との相克といったコルネーユ好みのテーマは、劇の開始以前に決着がつけられており、劇の興味は以下本文で見るように、主人公が既に定まった運命を前にしていかに苦しみ悩むかという問題に絞られてくるからである。ラシーヌが『ベレニス』序文で劇の素材について「私は、それが舞台でかき立て得る情念の激しさからみて、劇には恰好の素材だと考えた」と語っているのも印象的である。
(12) 以下の考察はベレニスを中心に行うものとする。ティテュスについては既に「その5」で述べているので、本稿では多くはふれぬことにする。なお、アンティオキュスの役割については、最後にまとめて取り上げることにし、それまでは簡単にふれるだけにとどめたい。
(13) 第1幕ではこの他にアンティオキュスの恋という脇筋が提示されるが(第2場、第4場)、これも不安をもたらす要素のひとつとなる。アンティオキュスは長いあいだ秘密にしてきた恋をついにベレニスに打ち明け、望みを断たれた今は身を引いてローマより離れると告げる(第4場)。だが、彼の不運な恋がティテュスとベレニスの恋の行方にどのような影を投げかけることになるか、それが観客の関心のひとつに加わることも確かである。
(14) ベレニスは、ティテュスがアンティオキュスの恋を知り、嫉妬しているのだと思い込もうとする。ラシーヌは、アンティオキュスの存在をここでも利用している。
(15) ここでもまたアンティオキュスの存在が利用される。ラシーヌはこうしてティテュス自身による別離の宣告を後にずらすと同時に、アンティオキュスという微妙な立場にある人物の口を通じて間接的にティテュスの真意をベレニスに伝えることで、単なる≪場つなぎ≫以上の効果をも計算しているのである。無論この時点では、ティテュスはアンティオキュスの恋を知らずにいる。
(16) 第1幕では、観客にもまだティテュスの決意は知らされていない。だが、ティテュスは第2幕になってはじめて登場することも考慮する必要があるだろう。主要人物がひととおり舞台に現われ、思うところを明らかにして、はじめて劇的状況も観客に伝わるからである。特にこの劇ではティテュスの真意がどうであるかが最大の鍵となるよう設定されている。従って、観客が事態を完全に把握するには、ティテュスの登場を待たねばならぬわけである。
ラシーヌがティテュスを第2幕ではじめて登場させた理由は、わずかな人物の場面配分にあろうが、それ以上に第1幕でベレニスを幸福の絶頂におき、それから不幸のどん底へとつき落とす─つまりその≪落差≫の大きさから生ずる劇的効果をねらったのは間違いない。
(17) 劇的緊張感も、こうしてベレニスが≪真実≫─すなわち絶望─へと近づくにつれて、彼女の感情の高ぶりにまさに比例する形で高まってゆくことになる。
(18) 主題とのかかわりについては、詳しくは「その5」pp.31-34を参照されたい。
(19) 第5幕はこの他にも意外性─ないしはそれに近いあいまいさ─をいくつも含んでいる。その第一がベレニスがローマを去るとの報せであるが、そのすぐ後(第3場)に登場するティテュスの台詞も、ことによったら彼はそれまでの決意をひるがえし、ベレニスと結婚する気になったのではないかと思わせかねぬ≪あいまいさ≫を含んでいる。少くともアンティオキュスにはそう信じさせるに足る言い方をするのである。そして最後に─以下本文で見るように─、ベレニスがローマを去るというのは、実は自殺の決意を隠すための≪謀りごと≫だった(第5場)という≪どんでん返し≫が続く。
こうした設定 ─特に最後にあげた≪どんでん返し≫─は、劇の大詰に急激な調子を与えるためにラシーヌがあえて仕組んだものだと仮定したとしても、単純さをそこなう≪きず≫となることは否定できない。
(20) 手紙を小道具として使う手段はいくつか問題がある。ベレニスがティテュスに手紙を書いていたことは既に第2場でも語られており、それがこの場(第5場)における≪真相発覚≫の伏線をなしていたのは確かだが、≪わざとらしさ≫が残ることは否めない。初日の際はティテュスがこの手紙を実際に読み上げたとのことだが、こうしたやり方は緊迫した場面を間延びさせるばかりか、悲劇にふさわしからぬ滑稽な印象をも観客に与えかねぬため、作者自身がただちに撤回し、ティテュスが黙読する形に変えたとされている。
(Cf. Œuvres de Racine, éd. par Paul MESNARD, Coll. "Grands Ecrivains
de la France ", Nouv. éd, Paris, Hachette,8 vol. 1885-1888. Tome II, note
2 de la page 447.)
だがそれにしたところで劇の緊張感がここで一瞬ゆるむことは避けられない。この他にも、ティテュスがベレニスから手紙を奪い取るという行為自体が古典劇の規範のひとつをなす≪礼節≫
bienséances に抵触する恐れがあるとか、また手紙を使って≪どんでん返し≫を引き起こすことは単純な筋をそこなう≪きず≫となるだけでなく、手段としても安直であるとか、こまかく見れば批判されるべき点は多い。
(21) アンティオキュスは第5幕の第2場から第4場にかけて登場していたが、一度退場し、最終場(第7場)で再び登場する。彼が一度退場するのは、その間にティテュスとベレニスの最後の≪対決≫の場面が入るためで、そこに彼が加わる余地はないからである。
(22) ティテュスはここではじめてアンティオキュスの恋を知る。ラシーヌはベレニスが─そして観客が─アンティオキュスの恋を知る機会を早くも第1幕に用意した。アンティオキュスの恋という脇筋を提示するのが遅れるとそこで≪どんでん返し≫がおこり、単純な筋がそこなわれる。それゆえ、観客にはなるべく早い時期にアンティオキュスの≪立場≫を明らかにしておき、その上で彼の存在を有効に利用しようというわけだ。
しかし、ティテュスがアンティオキュスの恋を知る機会は逆にできる限り後にずらさなければならない。なぜならこの劇では、既に見たように、主要人物の数を最少限におさえたことと、ティテュスとベレニスの対面の場面をできるだけ少くする必要があったため、その分だけアンティオキュスとティテュス、アンティオキュスとベレニスの対面の場をふやさなければならないからである。従ってティテュスが恋敵の存在を知る時期を早めてしまうと、例えば第3幕のような設定は不可能となってしまうだろう。それに、ローマかベレニスかという厳しい二者択一を迫られているティテュスに、ベレニスの愛をたとえわずかでも疑わせる可能性をもった情報を与えたり、ましてや無用の嫉妬を抱かせたりするのは決して得策ではない。ローマに身を捧げようとする彼の感情はあくまで高貴なものでなげればならぬし、またそのために彼が犠牲にしようとしているベレニスへの愛情にもいささかの曇りもあってはならない。さもなければ、愛と別離というただ一点に主題を集約し、なおかつ単純な筋を貫きながら悲劇としての≪高み≫を維持することは不可能となってしまうからである。無論そうなれば、ラシーヌが主張する「悲劇の楽しみのすべてをなすあの荘重なる悲哀」(『ベレニス』序文)も生まれてこないだろう。それゆえラシーヌは、ティテュスには大詰までアンティオキュスの恋を知らせぬようにしておいたのである。主要人物三人が最終場に至ってはじめて一度に舞台に揃う理由も、以上述べてきたところから明らかであろう。
(24) 第5幕第6場はまさにティテュスの独壇場である。合計63行に及ぶこの場の詩句のうち、ベレニスが語る機会は最後から3行目にただ一度だけ、それも「ああ!」Hélas ! という一語にすぎない。
(25) 事実最終場でティテュスが語る機会は、はじめの部分に二度あるのみで、しかも両方を合計してもわずか4行分にも満たない詩句しか与えられていない。
(26) 第5場の最後に「ベレニスは椅子にくずれおちる」とのト書がある点にも注目したい。彼女がもはや立っていられぬほど憔悴しきっていることは、ここからも明らかである。
(27) このことは、フランス古典劇の重要な規則のひとつである「真実らしさ」vraisemblanceの見地からも要求される。
なおベレニスが再び立ち上がり口を開くまでの間には、彼女が「椅子にくずれおち」た時(註26参照)から数えれば(「ああ!」という一語を別にして─註(24)参照)106行の詩句が、また第7場(最終場)の冒頭から数えても43行の詩句が語られる。『ベレニス』の全詩句が1506行からなっていることを考えれば(ただし1697年版テキストによる)、この間のベレニスの≪沈黙≫の長さは注目に価する。
(29) 最終場冒頭におけるティテュスとアンティオキュスの次のやりとりにも注目しよう。
ティテュス
おいで下さい、王よ、(…)
ここで私の弱い心の証人となっていただきたい。
これが情に欠けた愛がどうか、見ていただきたい。
私たちを裁いてほしいのです。アンティオキュス
すべてを信じております。お二人のことは私もよく知っております。
(30) ベレニスの決意によって、既に劇が始まる以前になされていたティテュスの決意も実現されたわけだが、『ベレニス』はまさにこの二つの決意の間に生ずる人間の苦悩のドラマを描くことによって成立したのである。だが、─単純な筋という本稿のテーマからはいささかはずれるので簡単に述べるにとどめるが─この二つの決意はいずれも一種宗教的な≪回心≫を思わせる何かを含んでいることも確かである。レーモン・ピカールが、『ベレニス』を「恩寵の悲劇」une
tragédie de grâce と規定し、ティテュスは「啓示を受けた」illuminé
のだと述べているのも、その決意が人間の─ それも人間の現世的な感情や情念にのみ依存する─論理によっては説明しきれぬ飛躍を感じさせるからであろう。そう考えてみれば、ティテュスの苦悩には、現世を超えた存在への献身を誓った人間が、現世的な愛を脱却しようとする過程で必然的に立たされる試練にも似ていると言えそうである。その意味で、ベレニスが彼の≪変心≫を非難し、≪愛≫の名において彼を断罪するのも、まさに象徴的である。そのベレニスがティテュスの真意を知るためには、彼女もまた、同じ≪愛≫という言葉が用いられはするものの、彼女がそれまで知っていたのとは別の意味の≪愛≫にふれ、「啓示を受け」る必要があったと言うべきだろうか。だがこの点に関しては、私は別の考えをもっている。「その5」で述べたように、ティテュスはローマという≪神≫の≪代理人≫に選ばれた。ピカールの言葉をそのまま借りれば、そこに彼の「啓示」があったのである。それゆえ彼は自己放棄による献身の道を選んだ。(「けれども生きることはもはや問題ではないのです。統治せねばなりません」(IV.
5))そしてベレニスも、最後にはティテュスの決意に同意する。だが、ローマという≪神≫が二人に啓示したものは、≪愛≫ではなく≪非情≫の淀による自己放棄の道に他ならなかった、というのが私の考えである。
なおピカールの見方については、彼の
Introduction à Bérénice, dans Œuvres complètes de Racine,
Tome I. " Bibliothèque de laPléiade ", Paris, Gallimard, 1950. pp.457
- 461. を参照されたい。
(31) レーモン・ピカールは、「どんでん返しも、誤報も、ほんのささいな事件もなく、何ひとつとして二人の高貴な心を引き裂く緩慢な歩みを早めることも、遅らすことも、乱すこともない」と断言している。私としては第5幕の最初の数場における設定は、厳密にはやはり単純な筋をそこなう≪きず≫になっていると思う。ただし、それがすべてを台無しにするほど重大な欠陥と言うわけでは勿論ない。Cf. PICARD, Introduction à Bérénice, op.cit., p. 458.
(32) ベレニスはアンティオキュスに対して常に残酷であった。第1幕第4場、第5場及び第3幕第3場を参照のこと。
(33) PICARD, Introduction à Bérénice, op.cit., p. 458.
(34) Ibid., p. 460. Voir aussi PICARD, " Propos sur Andromaque,Béréice, Bajazet ", op. cit., p. 81.
(35) アンティオキュスは、自分に有利と思えるような状況に立ち至っても、それに乗じてティテュスに対する友情を裏切ることも、またベレニスを絶望に追いやるような行動をとることも避けようとする(第3幕第3場参照)。そして、自らの恋を犠牲にすることになると承知しながら、ベレニスの幸福を願い、彼女の恋の成就を計ろうとさえする(第4幕第7場、第5幕第7場参照)。それをアンティオキュスの≪弱さ≫とすることもできるだろうが、私としては、彼のこうした≪忠実≫、≪献身≫、≪自己犠牲≫が『ベレニス』の主題を支える≪基調≫ともなっている点にむしろ注目したい。
(36) ベレニスがティテュスに最後の別れを告げたあと、劇はアンティオキュスの「ああ!」Hé1as ! という嘆きによって幕が閉じられる。永遠の別離と沈黙とを課せられた三人には、この先二度と愛を語る機会は訪れない。彼らがかろうじて口にできるのは Hé1as ! というもはや言葉にはなり得ぬ間投詞でしかないことを『ベレニス』の結末は象徴しているのである。
(37) 状況から考えても、ここでは切迫した調子をとる他ないのは明らかである。
(38) ラシーヌはベレニスの自殺という結末を全く考えなかったわけでもなさそうだが、結局それは採用しなかった。この問題については「その5」pp.
31 - 34を参照されたい。
なお、コルネーユの『ティットとベレニス』も、ラシーヌの『ベレニス』と同様、流血も死もないまま終わっている。コルネーユもまたこの主題には流血の事態はふさわしくないと考えたのであろう。
[テキスト・参考文献]
1、ラシーヌのテキスト