フェードルにおける有罪性の問題について

戸口民也



 「あらゆる人物は,王妃ひとりを除いて,みな大急ぎで彼らの不在の奥に溶けて失せる。イポリットは荒波の轟く岸辺で粉微塵になるかならぬうちに,テラメーヌは報告の長台詞が終るや否や,テゼーもアリシ一姫もエノーヌも,「見えざる神」ネプトゥヌスさえも。彼らは作者の主要な意図に仕えるためにそこにいたに過ぎないゆえに,今や存在するふりをすることをやめたのである。彼らには持続の実体がまったくなかった。だから彼らはその身の上話によって消耗されつくすのである。これらの人物は情欲によって典型的に狂わされたひとりの女性の情炎と狂熱・悔恨と懊悩をかきたてるあいだしか生存しない。彼らはその女性のラシーヌ的胸中から,かつで情熱が抱かせた最も高貴な淫欲と悔恨の響きを引出すために奉仕するのである。彼らは生き残らない。しかし「彼女」は生き残る・・・」(1)

 実際『フェードル』においては,ヴァレリーの指摘するように,あらゆるものがまさにその宿命的な情熱ゆえに「狂わされた」ひとりの女性をひときわ鮮明に浮かび上がらせるためにのみ存在しているかのように感じられる。テゼーの不在・死の誤報・突然の帰還も,イポリットとアリシーの恋も,エノーヌの不吉な忠告・画策も,すべて究極的には不倫の情熱にとりつかれた王妃を錯乱させ,罪に駆立て,取り返しのつかない状況にまで追いつめておいて,容赦なく打ちのめすという以外には何の目的も持たないようにさえ思われるほどである。たしかにイポリットの悲惨な最期はわれわれに憐みの情をかきたてさせるものと言えよう。また「不確かな証人を信じすぎた」(V.5)テゼーの過ちと悔恨は同情されてしかるべきであろう。しかし『フェードル』はイポリットの悲劇でもなければ,いわんやテゼーの悲劇でもない。それはあくまで,題名の示すように(2),フェードルの悲劇なのである。事実この劇において彼女の占める位置は非常に大きい,それも最も重要な人物と言う以上にむしろ唯一の人物と呼ぶほうがふさわしいほどである。それまでのラシーヌ悲劇では,それぞれ相容れない立場にある何人かの(大体3人ないし4人)主要人物のあいだに生ずる対立・葛藤から劇が展開され,ついには破局がもたらされる,というのがほぼ全体に共通して見られる基本的なパターンであったのだが,『フェードル』の劇構造はこれと異なり,対立・葛藤はただひとりの人物すなわちフェードルの内面に集約される,という形をとっている。つまり,ティエリー・モーニエの見解に従うならば,そこには≪第四の一致≫とも言うべきものが想定されるのである。「フェードルによって,ラシーヌ悲劇は三一致の枠を更に一歩押し進めている。ラシーヌ悲劇はもはや単一の日,単一の場所,単一の筋というだけではあきたらず,単一の人物にまで行き着き,それまでは人物間の対立関係から生じていた葛藤をひとりの中心人物のうちに限定するのである。」(3)

 たしかに『フェードル』においては,登数人物の間には真に対立・葛藤と言い得るようなものは最後まで起こらないまま終ってしまう。というのも,ここでは悲劇を生み出す要因つまり危機的状況や破局を導き出す直接的因子は,人物間の不可避的な対立・葛藤ではなく,むしろ誤解とか錯覚,あるいは事実の認知の遅れであるからだ。この劇は,テゼーの死の誤報が伝えられた時点ではじめて実際に劇として展開されるための基盤が形づくられる。なぜなら,この誤報が契機となって,イポリットはアリシーに,そしてフェードルはイポリットに恋を告白するのだから。この告白によって状況はのっぴきならないものとなる。もしこの誤報がもたらされなかったとしたら,事態はどのように展開して行っただろうか? おそらくイポリットはテゼーの捜索に出発し,そしてフェードルは,イポリットに恋を告白することなく死んで行ったであろう。つまり劇は第一幕だけで,きわめて≪非≫劇的に終ってしまったにちがいない。だが,まさにその≪忌わしい報せ≫はもたらされ,状況は一変してしまう。イポリットの出発もフェードルの死も一時中止される(だがその両方とも結局は別の形で,それもこの一時中止のために,一層悪い形で実現されることになる)。そして二つの恋の告白がなされる。イポリットは父の死によってアリシーを(と同時に彼自身の恋を)束縛してきた掟が消滅したものと錯覚し,またフェードルは自分の恋が ― エノーヌの言うように「世の常の恋」(I.5)になったとは思わなかったとしても ― ことによったら叶うのではないかと錯覚する(「すると,思いもかけなかったのに,希望が私の心の中に忍びこんだのです」(III.1)。だが,もうひとつ重大な間違いは,彼女がイポリットとアリシーの恋を知らずにいたということだ)。こうして,このまま行けばフェードル・イポリット・アリシーの間に深刻な葛藤が繰りひろげられるにちがいないというところに,テゼーの突然の帰還となる。ところが,この誤解のもととなった人物は,その帰還によって他の人物たちの錯覚を打ち砕くだけでなく,自分自身重大な誤解を(たとえそれが企まれたものであるにせよ)犯すことによって,破局 ― それも最悪の事態とも言うべきもの ― の到来を決定づけるのである。

 このように『フェードル』においては,相次ぐ誤解や錯覚によって危機的状況が形成され,深刻化され,真実の認知の遅れによって破局がもたらされる,という劇構成がとられている。このため,人物間の葛藤は,それが生ずるための要素は存在するのだが,顕在化されるに至らぬまま ― と言うよりはむしろそれが回避されるような形で ― 事態が進展して行くという結果になっている。それでは,われわれはこうした劇構成がとられていることの意味をどう解釈すればよいのだろうか。その意味は,モーニエの言う≪単一の人物≫に焦点を絞って考えてみたとき明らかにされる。つまり,この劇のなかで生ずる誤解とかくい違いとかは,すべて最終的には,フェードルの内面で繰りひろげられる葛藤 ― 情熱の衝動と罪の意識との葛藤 ― をより激烈化し,あらわに浮きぼりにさせるところに,その意味を見出しているのである。別の言い方をすれば,それはフェードルの死をほんのわずかばかり遅らせ,しかもこのわずかな遅れによって彼女を取り返しのつかない決定的な行為に駆りたてる契機としての役割を果たしているのだ。彼女は自らイポリットに恋を告白してしまう。そしてここにフェードルの悲劇が成立するための条件が整うのである。さらにまた,イポリットの死は,フェードルの最後の告白が遅れたために(この遅れも,事の真相を誤認したテゼーが,かえってそのためにそれまでフェードルが知らなかった事実を彼女に知らせたという微妙な行き違いから起こるのだが),避けられないものとなってしまう。そして,このイポリットの死によって,フェードルの罪が現実の形で成就されるのである。

 ジョルジュ・プーレは「ラシーヌ的宿命は行動に対する思考の遅れを特徴としている〔‥‥‥〕。ラシーヌ的宿命,つまりそれはフェードルの「私は何ということを口にしてしまったのだろう?」(I.3)である。それは不可避性である」(4)と説明しているが,『フェードル』の場合に関して言えば,これに対応する形で次のような説明を補足することができよう。すなわち,事態が不可避的・宿命的様相を帯びてくるのは決意に対する実行の遅れに由来するのだ,と。つまりそれはフェードルの「私は罪深い命をながらえすぎてしまった」(I.3)なのである。そして,「そのような忌わしい告白をしないために私は死ぬのです」(I.3)というフェードルが,死を遅らせたばかりに,結局は三度までその≪忌わしい告白≫をすることになり,しかもそれによって事態は取り返しのつかないところまで発展してしまうのである。

 ところで,『フェードル』が,このように劇の展開も葛藤もすべて究極的には≪単一の人物≫のうちに集約されてしまうという劇構成を取っている理由を別の観点から考えてみよう。その理由は,ラシーヌがこの劇において,それまでの悲劇に登場した相異なる二つのタイプの人物を≪単一の人物≫のうちに一致させたところにある。レーモン・ピカールが指摘するように,「それまでラシーヌは二つのタイプの人物を舞台に登場させていた。その一方は,オレスト,エルミオーヌ,ロクサーヌのように情熱にとりつかれ,自己の欲望の充足をひたむきに追い求めるといった人物である〔‥‥‥〕。またもう一方は,ティテュス,クシファレス,モニームのように,自己を克服して生きるすべを知っていて,ある価値の秩序を自覚し,たとえ苦しくとも,それに従って自己の行動を律するといった人物である。」(5)ところが「フェードルはロクサーヌの性格もモニームの性格も備えている。〔‥‥‥〕他の悲劇ではすべて,幕が上がったときには,主人公はすでに自己の情熱を受け入れていて,もしそれ以後何かと闘うことがあるとすれば,それは自分自身に対する闘いではなく,情熱を満たすための闘いなのである。また,さもなければ,主人公は最初から自己を克服せねばならぬことを知っており,また実際にそれに成功するのだ。『フェードル』においてのみ,人物は情熱を嫌悪しながらもそれに身を委ね,自分自身に溺れながらなおかつ自己とたたかい続け,ついにはこの特異な悲劇が展開される二つの面,すなわち道徳的な面と心理的な面とにおいて敗れ去るのである。」(6)

 もしもフェードルがロクサーヌと全く同じようなタイプの人物だったら,彼女は最初から死を思いつめたりはしなかっただろう。むしろあらゆる手段を用いて恋の成就をはかったはずである。また,もしもフェードルがモニームのような人物だったら,やはり彼女は死を考えたりはしなかったはずだ。というのも,もしそうなら,彼女は自分の守るべき義務に従って恋を克服することができただろうから。しかし,「今にも死にそうな,しかも死を求めている女性」(I.1)として,フェードルは最初から自分が死なねばならぬことを自覚して舞台に登場する。彼女は不倫の情熱のとりことなっている。そしてその情熱を克服することは到底できないということを思い知らされている。しかし彼女は自分を苛む情熱を罪深いもの,おぞましいものとして,誰よりも激しく嫌悪している。となれば,道はひとつしかない。つまり,自己の存在そのものを滅ぼすことによって,罪深い情熱を滅ぼすことである。

当然のことながら私は自分の罪におびえ
生きていることを嫌悪し,恋の炎を恐れました。
私は,死ぬことでもって,名誉を守り,
日の光から,かくも忌わしい恋の炎を隠そうと願ったのです。(I.3
 自己を罪深いもの,悪しきものとしてしか認められないような存在,自己をこの世界から抹殺することにしか救いを見出せないような存在 ― それがフェードルなのだ。そして,まさにこの点において,フェードルはラシーヌの全悲劇の登場人物のなかでも最も特異な人物としてわれわれの前に現れるのである。他の人物はほとんどすべて彼らが置かれた,もしくは追い込まれた状況下において,つまり,彼らの切実な願いとか情熱とかの実現を容赦なくはばむような状況下に存在せざるを得なかったことによって,悲劇的であったのに対し,フェードルはむしろこの世界に存在すること自体が最初からすでに悲劇的であるといった人物なのである。他の人物は,情熱であれ,義務であれ,あるいはそれ以外の何かであれ,とにかく自己のすべてをかけて追求する目的をなにかしらもっていたし,またこのことが彼らの生を支えるよりどころとなっていた。ところがフェードルにはそうした目的をもつことも,よりどころを得ることもできない。もはや生きていること自体が罪であるとしか彼女には感じられないからである。フェードルというまさに「天からも地からも見放されたあわれな存在」(IV.6)には,最初から絶望しか用意されていない。しかもその絶望とは,「惨めな! それなのにまだ私は生きているのか?…」(IV.6)という言葉に象徴的に示されているように,自分が生きてこの世界に存在していることに対する絶望なのである。
 
 

II

 ラシーヌが『フェードル』において意図したことは何か? それは情熱を罪深いものとして断罪することである。あるいは不倫の情熱という主題を取り上げることによって,有罪性の問題を提起することであると言うこともできよう。ラシーヌは序文の中で次のように述べている。「私に断言できることは,この劇ほど美徳が強調されている悲劇を,私はこれまで書いたことがないということである。ここではどんなささいな過ちも厳しく罰せられている。単に罪深いことを思うだけでも,ここでは罪そのものと同じくらい恐ろしいものとみなされている。ここでは恋ゆえの弱さも真の弱さと考えられ,また情熱は,それがもたらす一切の混乱を明らかにするためにのみ提示されている・・・」ただ,最初の部分を次のように言い直した方が,おそらく問題はより明確になると思われる。すなわち,確かなことは,この劇ほど≪罪≫が強調されている悲劇を,ラシーヌはこれまで書いたことはないということだ,と。事実,フェードルが絶えずおびやかされている深刻な罪の意識こそ,何にもましてこの悲劇を他のラシーヌ悲劇と大きく隔てている最も重要な点であると言えよう。だがそうした特徴はこの劇の題材自体に由来するものではないのか,という疑問があるいは提出されるかもしれない。たしかにテゼーの妻がイポリットを恋するということは,罪とみなされて当然である。しかし,もしもラシーヌにその気があったならば,本来の主題を改変してフェードルの恋から罪の要素を取り除くことは十分可能であったはずである。つまり,彼以前にジルベールやビダールがしたように,また彼と競作したプラドンがしたように,フェードルをテゼーの妻ではなく,婚約者というふうに設定すればよかったのだ(また,そうすることのほうが,むしろ当時の習慣にはかなっていたのである)(7)。しかもラシーヌ自身,すでに『ミトリダート』で,モニームをミトリダートの妻ではなく婚約者とするといった,同じような改変を行っているのである。ところが,ラシーヌは『フェードル』においては,「演劇上の慣習やロマネスクの伝統からすれば,人に不快感を起こさせるような性格は一切取り除かれてよいと認められていたし,またそう要求されてさえいた恋を,意識的に道ならぬ恋として描いた」(8)のである。それゆえ,フェードルを不倫の恋に苛まれ,かつその恋ゆえに罪の意識に悩む人物としたのは,ラシーヌ自身の意図が強く働いていると見てさしつかえないだろう。だからと言って,それはただ単に≪不倫の恋≫という本来の設定を忠実に受け継いだだけにとどまるわけではない。この点を明らかにするために,ラシーヌの『フェードル』がエウリピデスの『ヒッポリュトス』とセネカの『パエドラ』に対してどのような位置にあるかを,それぞれの作品のヒロインに問題を絞りながら考えてみたい。

 エウリピデスにおいては,劇の主人公は題名にあるとおりヒッポリュトスである。また劇の主題も,恋を蔑むヒッポリュトスに対するアプロディテの復讐であつて,パイドラはこの復讐のための道具とされているにすぎない。これに反して,セネカでは逆にパエドラの情熱が劇の主題となっている(しかも,≪太陽神の後裔≫に対するウェヌスの復讐という,ラシーヌにおいて重要なモチーフとなる設定が,ここですでに提示されている)(9)。と同時に,ヒロインの性格も一変する。エウリピデスのヒロインは,女神の復讐の道具とされたために,「操正しい方でありながら,つい心にもなく不倫の恋に陥」(10)ってしまい,恋を克服できないと知って,名誉を守るために死を選ぶ女性として描かれている。彼女は,ヒッポリュストを無実の罪で告発したことを除けば,むしろ誠実な,貞潔を何よりも重んじる女性で,その死も同情をもって見られている。他方セネカのヒロインは,恋の情熱に完全にとりこにされ,その道ならぬ恋をいさめる乳母の忠告にももはや耳を貸さず,すべてを投げ打って一途に恋の成就を求める女性として登場する。そして彼女の死も,恋を拒絶されたため,一度はヒッポリュトゥスを無実の罪で告発するが,そのために彼を無漸な死に追いやってしまったことに絶望して,自らもその後を追うという形になっている。

 ラシーヌは,この二人の古代作家が生み出した全く対照的な二人のヒロインを一個の存在のうちに統一することによって,彼自身の独自のヒロインを創造している。それは決して単なる折衷と見なされるべきものではない。たしかにフェードルの台詞ひとつをとっても,ある場面ではエウリピデスからの借用(それも詩句によっては全くの翻訳としか言えないものもある)のあとが歴然としているし(11),また別の場面ではセネカの影響を考えざるを得ないような部分もある(12)。しかし,たとえ同じような場面で同じような言葉を語ることがあったとしても,ラシーヌのフェードルは,エウリピデスのヒロインでもセネカのヒロインでもないし,またこの両者の折衷物でもない。情熱に苛まれながらも最後まで自己を抑制しようとする女性と,情熱にどこまでも引きずられて行く女性とが一体化されたとき, ― しかも,その際に当然生ずることになる矛盾や二重性が曖昧な形で解消されたりせず,逆にそれが更に深刻化され尖鋭化されたことによって ―  全く別の新しい女性,存在の最も奥深い部分から自己を突き動かす情熱に完全に狂わされていながら,そうした情熱ゆえに錯乱する自己を恐怖と絶望をもって凝視せずにはいられない女性が誕生したのである。そして,このように自己を凝視するがゆえに,彼女はもはや神々の繰り人形でも,また単なる情熱の奴隷でもなくなり,罪を憎みながら罪を犯してしまう自己の存在そのものに内在される有罪性を自覚する人物としてわれわれの前に登場するのである。
 
 

III

私は罪深い命をながらえすぎてしまった。(I.3
 劇の冒頭近くで語られるこの言葉ほどフェードルの悲劇性を(そして同時にこうした言葉を発せずにはいられない彼女の深刻な罪の意識を)鮮やかに表現している言葉はない。そしてまたここのところに彼女の有罪性の問題が浮かび上がってくると言えよう。というのも,悲劇は,フェードルが,すでに≪ながらえすぎてしまった≫はずの命を実際には更にながらえてしまったことによって成立するからである。ここで問題とされているのは≪生きるべきか死ぬべきか≫といったことではない。フェードルはいずれにしても死ぬよりほかないのだし,またそのことは彼女自身が誰よりも強く自覚している。それではいつ死ぬのか? 沈黙を守ったままで,あるいは秘密を告白してしまったあとで? つまり「言うべきか言わざるべきか,それが問題だ」(13)というわけである。
さいわいなことに,私の手は罪に穢れていない。
私の心も,この手と同じように潔白であってくれたなら!(I.3
 だが,沈黙を守っている限り,心の中ではぐくまれてきた罪はもはやどうにも言いのがれできないとしても,少くとも自分の手まで罪に穢すことだけは避けられる。フェードルにしてみれば,そこにかろうじて一縷の救いが見出されるわけだ。それゆえ,
こんないまわしい告白をしないために私は死ぬのです。(I.3
 生きながらえることがまさに罪をはぐくむことにほかならない以上,その罪を恐れ嫌悪している彼女に残された道は死よりほかにない。生きる道は最初から閉ざされている。そしてもし彼女にわずかながら選択の余地が残されているとしたら,それは秘密を告白するか否かということだけである。だが,秘密を打ち明けたところで事態は少しも好転せず,むしろ一層悪化するばかりであるということはフェードルも十分承知している。そればかりか,まさにそれを打ち明けることによって取り返しのつかない重大な結果が引き起こされるのではないかということを,彼女はすでに予感しているかのようにさえ見える。
おまえが私の罪と私を打ちひしぐ運命を知ったところで,
私はやはり死なねばならない,それも一層罪深いものとして死ぬのです。(I.3
 しかし,結局フェードルは,エノーヌの懇願に負けて,恋を打ち明けてしまう。つまり,ここでひとつの選択が,しかも心ならずも悪しき方の選択がなされてしまったわけだ。そして,まさにこの瞬間に,フェードルは取り返しのつかない,決定的な第一歩を踏み出したと言える。なぜなら,「告白することによって,フェードルは情熱を現実の次元の中に刻み込んでしま」(14)ったからである。

 いかなる罪も,まだそれが心の中で抱かれている限りにおいては,あくまで潜在的な可能性としてのみとどまり,他に対する実際の影響力を持つまでにはいたらない。だが,ひとたびそれが告白され,他の者の知るところとなったとき,罪は想念の次元から現実の次元へと解き放たれ,明白な事実となり,実際の影響力を,自己に対してばかりでなく他に対しても振るいはじめるのである。それゆえ,この告白という行為によって,フェードルがそれまでかろうじて保ってきた自己抑制に重大な破綻が生ずると言うことができよう。というのも,これによってフェードルの心の中にエノーヌの誘惑(と同時にそれは彼女自身の情熱からくる誘惑でもあるのだが)のつけ入る間隙が生じたからである。

 この最初の過ちは,たしかにそれが犯された時点においては,それほどの重大性をもっているようには見えないかもしれない。だが,たとえどんなに小さな過ちにせよ,ひとつの過ちが犯されることによって,そこから別のより大きな過ちが,さらには思いもよらなかった重大な罪が誘発される可能性が生まれるのである。まさしく「美徳と同様に,罪にも段階があり」,「大きな罪の前には必ず小さな罪が犯される」(IV.2)というわけだ。フェードルはすでに一度エノーヌの懇願を受け入れてしまっている。そのため,テゼーの死が報されたあとでのエノーヌの説得に抵抗することは,最初の時よりも一層困難となる。また,こうした条件があったからこそ,テゼーの赴報がフェードルの最初の決意を狂わせ,死を遅らせる要因となり得たのである。そして,フェードルがエノーヌの説得を受け入れて生きることに同意したとき,彼女は無意識のうちに情熱を受け入れていたと言える。なぜなら,たとえ「息子への愛情」(I.5)という口実を設けたにせよ,実際にはフェードルにとって生きることはすなわち恋することであり,情熱に身を委ねることにほかならないからである。それゆえ,生きることに同意したことによって,彼女がイポリットに恋を告白するのはもはや避けられない成り行きとなり,彼女の手も,その心と同様に,取り返しようもなく罪に穢れてしまうことになる。そしてこの同意という点において,彼女の責任と有罪性が問われてくるのである。

 この問題に関してラシーヌ自身は序文で次のように述べている。「実際に,フェードルは完全に有罪でもなければ完全に無罪でもない。彼女は自分の運命と神々の怒りとによって道ならぬ情熱にとらえられたのであって,誰よりも彼女自身がこの情熱に嫌悪を感じている。彼女はこれを克服するためにあらゆる努力を払っている。これを人に打ち明けるくらいなら死んだほうがましだと思っている。そして,この情熱を打ち明けざるを得なくなったときの彼女の混乱した話しぶりは,彼女の罪が自分の意志によるものというよりも,むしろ神々の罰であることをはっきりと示している。」ここでは明らかにラシーヌは,神々の怒りや罰を強調することで,フェードルを弁護する側に立っている。しかし彼は,おそらくは意識的に,重要な点を避けて通っている。われわれはそのことに注意しなければならない。たしかに情熱がヴェニュスの呪いによる避けられない宿命という点では,フェードルは完全に有罪というわけではないと言えるかもしれない。また,もしもこの点だけを強調するならば,彼女の罪の責任は究極的にはむしろ人間を執拗に罰しようとする神々の側にあるのではないか,という結論にまで到達するかもしれない。しかし,そうしたことを考慮した上でも,やはりフェードルは,完全に無罪というわけではないのである。それは,情熱自体のもつ不倫な性格もさることながら,むしろそれ以上にフェードルがその情熱の罪深さを誰よりも強く自覚しているにもかかわらず,エノーヌの説得を受け入れたためである。「それを人に打ち明けるくらいなら死んだほうがましだと思っている」にもかかわらず,エノーヌだけでなく,イポリットにまで恋を告白してしまうからである。まさにこの点においてフェードルは,自己を打ちひしぐ宿命に引きずられながら,同時にその宿命に加担してしまっているという深刻な矛盾に陥っていることが明らかとなる。またここのところに,宿命と自由とが微妙に交錯する曖昧な部分,神々の意志と共に,人間の責任と有罪性とが問われずにはすまされない部分が存在するのである。そしてフェードルは,「このからだの中に/一族の宿命である情火を燃え上がらせた神々,/かよわい女の心をまどわせることで/残酷な栄光をきづき上げたあの神々」(II.5)が彼女に演じさせようとしている役割を何とか拒否しようとしながら,結局はその役割を演じてしまい,神々の意図を助けるような行動をとってしまっている自己の弱さに,責任と有罪性とを認めざるを得ないのである。

 このように考えてきたとき,われわれはフェードルの罪の意識が単に道徳的な次元にのみとどまらず,宗教的,形而上学的な次元に深くかかわっていることを理解するのである。ここでは罪は道徳上の善悪の問題としてではなく,存在それ自体の問題として把握されねばならない。その際われわれは,『フェードル』において罪が問題とされる場合,必ずと言ってよいほど≪潔白≫と≪有罪性≫,≪清らかさ≫と≪穢れ≫,≪光≫と≪闇≫,≪昼≫と≪夜≫といった一連の対立するイメージが喚起されている点に注目する必要があろう。また同時に,これと関連して,フェードルの罪の意識は彼女が太陽神の末裔であるとこに深く根ざしているという点にも注目する必要があろう。太陽は清らかさ,光を象徴する存在である。しかもその末裔であるフェードルは,清らかさと光とを当然享受できるはずの者でありながら,現実には罪深い情熱に身を焼かれている穢れた者,「日の光から,かくも忌わしい恋の炎を隠そう」(I.3)と願うことしかできない者,光や清らかさにはふさわしくない者としてしか存在できない。それどころか,このように穢れた自分が存在しているために,自分は先祖の太陽を冒涜し,その清らかさと光とを穢してしまっている,という恐れを彼女は抱いている。そして,このことが彼女の罪の意識をかきたてるのである。それゆえフェードルは,「ついには自分自身にも,自分を照らす日の光にも倦み果てて」(I.1),一切の罪と穢れを覆い隠す夜の闇の中に身を隠そうとする。にもかかわらず,彼女は死ぬ前に太陽に最後の別れを告げに現われずにはいられない。だが,いざ太陽の前に進み出て,その澄みきった視線に出会うと,彼女はひたすら自己を駄じるほかないのである。

 だが,自己の罪深さと穢れを意識すればするほど,逆に清らかなもの,潔白なものに対する憧れは切実になってくる。それだからこそ,フェードルがイポリットとアリシーの恋を知らされたとき,彼女は二重の意味で決定的とも言える打撃を蒙るのである。彼女の恋がかなう可能性など最初から全くなかったことはこれでもはや疑う余地がない。「イポリットは恋をすることを知っている,しかも私には少しも必を動かされない!」(IV.5)それどころか「私ひとりだけがおそらく彼にはたえられない存在なのだ。」(IV.5)その上イポリットとアリシーは清らかな恋で結ばれているというのだ。

ああ,あの二人は思いのままに会っていたのだ。
天も二人の清らかな恋を許していたのだわ。
二人はなんの悔いもなく恋の路をたどっていられた。
毎日毎日があの二人にとっては明かるく晴れ晴れと明けていった。
それにひきかえこのあわれな私は,天からも地からも見放され,
太陽から身を隠し,光を避けていた……(IV.6
 イポリットとアリシーは,フェードルが求めようとしても決して手に入れることはできないもの,つまり恋も清らかさも二つながら手に入れている。しかもフェードルには,この二人に復讐はおろか嫉妬する権利すら認められていないのだ。絶望と怒りにかられたフェードルの脳裏に一瞬復讐の考えがよぎる。が,次の瞬間には,彼女はそうした考えを抱いた自分に愕然とする。
私は何をしようとしているのだろう,どこまで理性を失ってゆくのだろう?
この私が嫉妬するとは! しかもテゼーにすがるとは!
夫が生きているというのに,まだ私は恋に身を焼いている!
誰を恋して? 誰の心を求めて?
一言一言に身の毛もよだつ。
私の罪はもう限度にまできてしまった。
私は不倫と偽瞞とをふたつながら求めている。
復讐にはやるこの人殺しの手は,
罪のない者の血に浸ろうと燃えている。
惨めな! それなのにまだ私は生きているのか?
あの聖なる太陽が,末裔であるこの私に注ぐ眼差しに耐えていられるのか?(IV.6
 一体どこまで罪を重ねたら気がすむのだろう,今でさえもはや取り返しのつかないところまできてしまっているのに? それもみな自分が「罪深い命をながらえすぎてしまった」からではないか,最初の決心を遅らせてしまったためではないか。こう思い知ったとき,フェードルは,彼女の存在自体が決定的に悪であり有罪であることを真に自覚するに到るのである。なぜ彼女は有罪なのか? それは彼女が今もまだ生きているからである。そして,彼女が生きていることによって,彼女の存在にまつわる罪の穢れを,この世界にまで及ぼしてしまったためである。フェードルの手が触れただけで,イポリットの剣は「おぞましいものとかわり」,「彼の手をけがす」(III.1)ことになる。トレゼーヌは,フェードルがこの地にいるがゆえに,「美徳さえも毒にそまった空気を吸わねばならない,忌わしいけがれた場所」(V.1)と化してしまう。このように,一刻も早くこの世界から粛清され抹殺されるべき存在,すみやかに退治されるべき「怪物」というのが,この世界におけるフェードルの存在の姿である。実際にそれは≪惨めな≫としか言いようのない存在である。≪清らかさ≫にふさわしいはずでありながら,それから完全に見放され,それを穢すものとしてしか生きられず,≪潔白であること≫を切実に欲しながら,潔白な者を破滅に追いこむことしかできなかったということ,そこにフェードルの悲劇がある。

 自己の≪惨めさ≫に対する絶望。だがこの絶望の極限にまで行き着いたとき,そこからある切実な願いが生まれてくる。それは,まさに自分がこれまで存在してきたこと自体がこの世界を冒涜し,清らかであるべきものを穢すことにほかならなかったという事実を自覚したとき,それならばそうした自己の存在を滅ぼすことによって,これまで自分が冒涜し,穢してきたものに本来の清らかさを取り戻させることができるのではないか,という願いである。もし自分がこの世界における一切の悪の根源であるのなら,自分の死と共に悪も消滅するにちがいない。

そして死は,私の眼から光を奪い,
この眼が穢していた日の光に,まったき清らかさを取り戻させることでしょう。(V.7
 それゆえ,フェードルの死には,単に自分の犯した罪をつぐなうというだけでなく,さらに切実な願い,つまり光の回復,清らかさの回復という願いがこめられていると言える。といっても,フェードルの死によって,彼女が死のまぎわに願ったように清らかさが回復されたとしても,彼女自身はあくまで清らかさからは見放された存在として,罪と汚辱を負ったまま死んで行くのには変わりない。にもかかわらず,このフェードルの最後の詩句には,絶望の果てにたどり着いたある種の安らぎ,あるいはカタルシスとも言えるようなものが感じられる。それは,彼女が自己の存在をその穢れもろとも完全に否定するという意味をこめて,死を受け入れたとき,彼女は,この全面的な自己否定によって,この世界に穢れをもたらす存在から,穢れを浄め去る存在へと変貌したためであると言えるのではなかろうか。そして,おそらくはこの点に,われわれはラシーヌがこの悲劇でフェードルの≪罪深さ≫を執拗なまでに強調したことの意味を見出すことができるのではないだろうか。つまり,フェードルがあれほど罪の意識に苛まれ,自己の≪惨めさ≫に徹底的に絶望するところまで追いつめられることは,劇の終りまぎわで提示される清らかさの回復というテーマに到達するための不可欠な過程だったのである。すでに述べてきたように,ラシーヌは『フェードル』において相反する二つのイメージを対立的に喚起させているが,その点から考えてみたとき,この悲劇は,大詰になって,それまで支配的なイメージだった≪闇≫や≪暗さ≫が,≪光≫と≪明るさ≫のイメージにとって変わられるという,逆転がおこる。すなわち,フェードルの死の瞬間に到るまで,彼女の存在にまつわる罪と穢れとによってそこなわれてきた「日の光」が,彼女の死の瞬間に,まさに彼女が一切の罪と穢れとを,自己の存在と共に滅び去るべきものとして引き受けて死につく瞬間に,日の光本来の姿である「まったき清らかさ」を一挙に取り戻すのである。しかもその際,フェードルをつつんでいた闇が暗く不純なものであればあるほど,逆に日の光は一層明かるく輝かしいものとして,その純粋性を回復する。それゆえ,フェードルは,まさにその罪深さ,惨めさゆえに,その対極にあるものとして意識される「存在」のもつ純粋性を明証する者として,われわれの前に現われ,そして死んでいったと言うことができるであろう。
 


1 Paul Valéry, «Sur Phèdre femme», dans Variété , Paris, Gallimard, 1945, p. 186. なお日本語の訳は『ヴァレリー全集』第8巻(筑摩書房,1967)の二宮フサ氏訳による。

2)初演(167711日)および初版(1677315日)での題名は『フェードルとイポリット』となっている(なお,ピエール・ベールの1676104日付の手紙では『イポリット』という題名がしるされている。P. Bayle, Lettre à Minutoli du 4 octobre 1676. Voir Raymond Picard, Corpus Racinianum, Paris, Les Belles Lettres, 1956. p. 76)が,二版(1687年)で『フェードル』と改められ,以後はすべてこの題名が用いられている。つまり,ラシーヌ自身が,劇の題名からイポリットの名を除いたということからして,この劇におけるフェードルの重要性が逆の意味から証明されると考えることができよう。

3 Thierry Maulnier, Lecture de Phèdre, Paris, Gallimard, 1943, p. 45. cité par Evelyne Hesse-Fink, Etudes sur le thème de l'inceste dans la littérature française, Berne et Francfort, Editions Herbert Lang, 1971, p. 14.

4 Georges Poulet, Etudes sur le temps humain, tome I, Paris, Plon, 1950, p. 113.

5 Raymond Picard, Introduction à Phèdre, dans l'édition des Œuvres complètes de Racine, «Bibliothèque de la Pléiade», tome I, Paris, 1950, p. 737.

6 Ibid. pp. 737738. ただこの悲劇には,ピカールが最後の部分で述べている「二つの面」とは別の面が存在する。そして,フェードルの悲劇性はむしろその「別の面」においてこそ問題とされるべきだと思われる。なお,このことに関しては後の部分でふれられているので,そこを参照していただきたい。

7 Gabriel Gilbert, Hypolite ou le Garçon insensible, 1646 ; Mathieu Bidar, Hippolyte, 1675 ; Jacques Pradon, Phèdre et Hippolyte, 1677. Voir Jean Pommier, Aspects de Racine, Paris, Nizet, 1954, pp. 311-417, «Histoire littéraire d'un couple tragique» ; — Paul Bénichou, L'écrivain et ses travaux, Paris, Corti, 1967, pp. 237-323, «Hippolyte requis d'amour et calomnié» ; et Revel Elliot, Mythe et légende dans le théâtre de Racine, Paris, Minard, 1969, pp. 166-185.

8) Raymond Picard, Introduction à Phèdre, op. cit., p. 738.

9 Sénèque, Tragédiestexte établi et traduit par Léon Herrmann, tome I, Paris, Les Belles Lettres, 1968, pp. 182 et 183 (« Phaedra », vv. 124-128.

10)エウリピデス,≪ヒッポリュトス≫(ギリシァ悲劇全集IV,人文書院,1960p22松平千秋訳

11) 例えば『フェードル』第1幕第3場。

12) 例えば『フェードル』第2幕第5場。

13) Roland Barthes, Sur Racine, Paris, Seuil, 1963, p. 115.

14) Raymond Picard, Introduction à Phèdre, op. cit., p. 741.