はじめに
幼児洗礼の人にとっては、信仰は生命とともに与えられたものでしょう。しかし無信仰の環境で生まれ育った人間には、それは自分の意志で、努力して見つけ出すしかないものです。
もちろん信仰は神の恵みですから、人間の努力だけで獲得できるものでは、実はありません。それは、すでに恵みとして神から私たちすべてに与えられているものです。
ただ、信仰を知らずに育った人間は、そのままではこの恵みに気づくことがきません。それに気づかせてくれる導き手が必要です。しかし、それと同時に、内的な欲求(私たちの心の中には神を求めようとする欲求が必ずあります)に従い、神を見出そうとする私たち自身の意志と努力が伴わなければ、導き手も私たちを導くことができません。神は人間を自由なものとして創造されましたから、人間が自由な意志で神を求めることを望まれます。「全ては神によってなされるが、私たちなしでは何もなされない」(シュヴロ『シモン・ペトロ』)のです。
実際に、もしも導いてくれる人がいなければ、私は信仰に到ることはできなかったでしょう。私の第一の導き手はパスカルでしたが、その出会いから信仰にいたるまでには、二〇年の時間と、さらに何人もの人との出会いが必要でした。信仰は人から人へと伝えられるものであるということを、私自身の経験からお話したいと思います。