このコーナーでは韓国映画について紹介します。
主に、佐々木が担当している「韓国文化演習Ⅱ」で使用した映画を紹介していきます。
ソウルから電車で1時間ほどの都市、仁川の女子商業高校を卒業した仲良し5人組の태희(てひ)、지영(ぢよん)、혜주(へじゅ)、비류(ぴりゅ)、온조(おんじょ)。いつも一緒にいた5人も、卒業後の進路は別々。それぞれに悩みを抱えながら日々を過ごしていた。
혜주はソウルの証券会社に就職。上昇志向の強い彼女は自己投資を怠らない。整形手術にも視力回復手術にもトライし、チャンスを伺っている。そんな혜주にいらいらを隠せないのが、高校時代は一番仲の良かった지영。彼女は早くに両親を失い、バラック街で祖父・祖母と暮らしている。屋根裏部屋でデザイン画を描きつづけているが、その才能を活かす機会どころか、就職先を見つけるのにも四苦八苦。そんな二人の間を取り持つのは、夢見がちで「どこか違う広い世界に出て行きたい」と切望する태희。彼女は家業を手伝いながら、小児まひの青年詩人の家に通い、彼の口述する詩をタイプに打つというボランティアをしている。中国にルーツを持つ双子の비류と온조は仁川のチャイナ・タウンに暮らし、アクセサリーの露店を出して生計を立てている。
新たな生活の始まりと、会う時間の減少は、5人の間に微妙な距離を生み始めていた。
個人的な韓国映画ベスト5に入る名作。最初に観たときの涙がお腹に落ちるような「しゅん」とした感動が忘れられない。谷村志穂の『エデンの旅人たち』の読後感と同種のカタルシスをもたらしてくれた思い出深い作品である。
しかしながら今回授業に用いるにあたっておよそ二年ぶりに見たところ、印象の変化を多々受けた。雑駁に言うと「新鮮さがなくなった」ということであろうか。この「鮮度のなさ」は今を若者として生きる受講生たちも同様に感じたようである。
公開年は2001年、当時の10代後半を描いているのだから、「十年一昔」と言われてしまえばそれまでなのだが、前回見たときにはまだまだ新鮮に思えたし、公開当時は韓国の社会的背景を知っていなければ感じることが難しかったいくつかのモチーフは、今の日本社会に暮らす人々にとってはむしろ理解しやすくなっているようにすら思われる。よって、授業では映画の鮮度と若者論を中心に本作の理解を試みた。
本作は一言で言えば「周縁者」の物語である。周縁という言葉に馴染みがなければ、社会のメインストリームに乗れなかった若者たちの人生を描いた物語、というとイメージがわきやすいだろうか。
周縁のモチーフはふんだんに用意されている。仁川という場所、商業高校卒という学歴、両親不在という生育歴、中国系という出自などなど。それらはすべて現代の階層を決定づける経済格差において彼女らが劣位にあることを予想させる。そうした格差に正面から立ち向かおうとするのが혜주であり、格差を生み出すシステムに組み込まれることを拒否するのが태희であり、その両者で引き裂かれそうになるのが지영であり、システムからドロップアウトすることで自分たちを守ろうとしたのが비류と온조とみることができるだろう。待ち受ける「貧困」に若者たちがどのように対応していくのか、それはここ数年で日本人にとってもリアルに感じることのできる問題となったのではないだろうか。特に지영の境遇と行動は、若者の貧困が「自己責任」であるのか「社会の責任」であるのかについて考える、恰好の素材となっている。
では、現代にも繋がる(いや、むしろ強調されつつある)現象を描いているにも関わらず、鮮度が感じられないのはなぜなのだろうか。それは、若者(というか社会の)コミュニケーションツールがここ数年で大きく変化、多様化したことに起因していそうである。例えば、作中で出てくる携帯はスマートフォンではない。連絡方法も通話かショートメールであり、カカオトークやフェイスブックは出てこない。こうした、当時の若者を象徴するために使用された演出の数々が、今の若者を象徴するものではなくなってしまっているのである。
これが時代の変化、と一言で片付けて済む問題であるかどうかはよく議論する必要があろう。なぜなら、フューチャーフォンからスマートフォンへ、という表層的な「発展」はみられるものの、「周縁」「格差」「貧困」という根本的な問題は変わっていない(深刻化しているかどうかについても簡単に結論は出せないが)と言えるからである。
本作は韓国のもつ社会問題に深く切り込んだ作品であるが、そうした問題を一旦置いて、純粋な青春映画として鑑賞すれば「少女たちの成長物語」として、おとなになった人々にとっては深い感動をもたらすのではないかと思われる。「学生時代にあんなに仲良かったのにすっかり疎遠になってしまった」「親友だったのに喧嘩別れしてしまった」というのは、ある程度年齢を重ねた人であれば誰でも経験があるのではないだろうか。
もっとも、SNSの普及はそうした感慨に耽る経験をも人生から奪うかもしれず、そうなった時、本作は本当の意味での古典となってしまうのかもしれないが。